知らぬ存ぜぬ道と人
2020年、夏。
さて、我々は今、不用意に遠くへ行くことができない。
また、不用意に知らない人と出会うことができない。
しかし、この「遠くへ行くこと」「知らない人に出会うこと」という行為。
果たしてこれらは、この流行病の中で我々から奪われてしまったのだろうか。
「どこか遠くへ行きたい」
そう言う時、もしくはそう感じる時は決まって私に目的地はない。きっとどこでもいい。しかしそれには決定的な条件が一つだけある。それは”ここではない場所“ということだ。
例えば私にとって「どこか遠くへ行きたい」という時の”どこか“とは、今の自分自身を取り巻いている環境やタスク、責任、不安その他諸々の全てから解放されるような、そんな夢のような場所だ。しかし悲しいことにそんな場所はない。
要は「どこか遠く」というのは自分自身の右上端に表示されるアンテナが四本、三本、二本、一本と減り、ようやく圏外へと到達するような場所だ。今自分を取り巻いているしがらみを全て受信せずに済む、全てを忘れて過ごすことができるような、そんな場所なのだろう。
そういう意味ではきっと私にとっては「目を覚ますと誰か別人へ成り代わっている」ということも「遠くへ行くこと」と言えるのかもしれない。
では「知らない人に出会う」とはどういうことなのだろうか。
自分とは違う道を歩いてきた人と出会い、会話をする。その人の見聞きしてきたものや、歩いてきた道を想像するという精神的な距離を疑似的に歩くことができる。
それはきっと誰かに乗り移る幽霊のように、別人になり変わり、どこか遠くを歩くことに等しい。
おそらく「遠くへ行く」という行為にとって、地理的な距離を稼ぐということはあまり重要ではない。
遠くへ行くことで、知らない人に出会うことは当たり前かもしれないが、知らない人に出会うことによって、遠くへ行くこともできるのだ。
さて、ようやく話は本題へ移る。
8月8日から8月30日にかけて京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAにて、「道にポケット」という展示が開催された。この展示は「遠くへ行くこと」「知らない人に出会うこと」を一つのキーワードにしていたのだ。
今回私は参加作家の一人であるクニモチユリさんからお声掛けいただき、展示の会期中に行われるワークショップイベントのゲストとして参加することになった。
この展示はマニラを拠点として活動する「Load na Dito」というユニットの協力の元で行われたもので、彼らのプロジェクトの一つである、Flex*というワードゲームを軸に製作されたグループ展だ。
Flex*とは五、六人で行うゲームで、はじめの一人がカードで引いた単語から連想した話を他のメンバーが聞き、次の人はその話の中で出た単語をキーワードにし、また話を紡いでいくというものだ。
ピックアップするその単語は、聴いた話の主題にあたるものである必要はなく、聴いていた人がなんとなく気にかけた一欠片で構わない。そのためFlex*内でピックアップされた単語を羅列すると次のようになる。
good morning(おはよう)
ずぶずぶ
沼
万年
何か良さそう
なんのこっちゃわからない。
しかしゲームの参加者は他人のエピソードを聞き、それに登場したこれらの言葉を一つピックアップして、自分が想起したエピソードを繋いでいく。脈絡と言えるような言えないような、そんな曖昧な接点でこの言葉たちは繋がれているのだ。
この単語たちを繋ぐのはゲームの参加者が今まで送ってきた人生の記憶だ。メンバーが変わったり、同じメンバーだろうがゲームを行う時期が変われば、この繋がりは生まれない。
同じ単語を軸にそれぞれが話をするのとは違う、非常に身勝手な舵でこのゲームは進んでいく。
このゲームに対して、私とクニモチユリさんはワークショップとして「Tulving」というワードゲームを考案した。
このTulvingは、エピソードを話してバトンを回してくFlex*とは違い、はじめにメンバーは単語のみでバトンを回していく。
それだけでは連想ゲームと同じようだが、Tulvingには単語を選ぶ上でのルールが存在する。それは「できる限り個人的な記憶から共感性の低いものを選ぶ」というルールだ。
例えば、通常の連想ゲームは単語を繋ぐにあたって共感性を最重要視する。
「バナナ」と言ったら「黄色」
「黄色」と言ったら「ひよこ」
「ひよこ」と言ったら「卵」
誰もが共感できる、言葉から広がるイメージの接点が見て取れる。
しかし、Tulvingは参加するメンバーが個人的な記憶から繋がりを見つけ、共感性の低い単語をつないでいくため、ゲームに登場した単語を並べると次のようになる。
引越し
石油化学コンビナート
棚
白
童貞
南京錠
なんのこっちゃわからない。
だが、このゲームは単語でバトンを繋いだ後、それぞれがその脈絡となるエピソードを順番に明かしていくという工程が締めにあるのだ。
例えば、私はTulvingで「自転車」と言う単語を受けた時に繋いだ単語は「バナナ」だった。
それは、昔私が駐輪場に止めていた自転車を取りに行くと、私の自転車のサドルにバナナの皮が置き去りにされていたと言うエピソードがあるからだ。おそらくこの繋がりは非常に共感性が低い。こういった記憶から、一般的には遠いが自分にとっては遠く無い言葉を繋ぎ、その後になぜ繋がるのかと言うエピソードを披露していくのだ。
これによって初めの単語のリレーでは見えない道が、その後に本人らによってハッキリと描かれる。その種明かしとも言えるエピソードを聞くまでに、参加者は「なぜこの単語からこの単語を繋いだのだろうか」と道筋を想像してしまう。しかし、実際に本人から脈絡となるエピソードを聞くと自身の予想とはまるで違う、ということがほとんどなのだ。
この時に生じる、本当の道のりと聞き手が想像した道のりとの差異は、まるでコンクリートで舗装された道と、そこを通る人が経験と好奇心をもとに草木をかき分けて作った獣道との違いのような大きな趣がある。
Flex*は、それぞれの記憶や思想を頼りに、言葉を繋いであてもなく遠くへ遠くへと向かう。そしてTulvingは、知らない街で知らない道を辿って待ち合わせ場所へ向かう。そんなゲームなのだ。
このFlex*を軸においた「道にポケット」という展示は見事にこの「遠くへ行くこと」と「知らない人に出会うこと」という二つを見事に体現していたと言えるだろう。
その先その先で人は受け取った言葉、風景、温度から何かを思い出していく。想像していく。そしてまた勝手に道を繋いでいく。言葉が言葉を呼び、そのイメージは幽霊のよう誰かに乗り移り、知らない道を歩いていく。
言葉を交わすという行為をやめなければ、私たちは遠くへ行き、知らない誰かに出会うことができるのだ。
道にポケット
https://gallery.kcua.ac.jp/archives/2020/305/
Load na Dito
https://loadnaditoprojects.cargo.site
こちらから投げ銭が可能です。どうぞよしなに。