「みんなで老いる」ということ
「1人なのにいろんな声が聞こえる」
「ものが盗まれた」
ずっと関わってきた高齢の女性から、ある日そんな訴えがあった。
日によって、いつも通り元気で役割をこなしてくれる日もあれば
「盗まれた」と悩んだり「声が聞こえるのに、他の人は聞こえないって言われる」
と顔をしかめたりしていた。
それでも、1人で自分のリズムで、穏やかに暮らしている。
人と関わり、地域サロンでは掃除をしてくれる。
「盗まれた」と少し険しい顔をしている時は、ゆっくり話を聞いて、別の話題にしたり、冗談を交えたりするといつの間にか笑顔になる。
今日は朝から、大学生の女の子と一緒にサロンで過ごしていた。
ふと「ここに座って。変な声聞こえない?」と、学生に相談している。
「私は聞こえないかな。」
大学生は、優しく答えて、話を聞いてくれている。
「そうかあ。やっぱり私だけかあ。じゃあしゃーないなあ。」
首を傾げながら「自分にしか聞こえない声」があることを、ゆっくり受け入れているようだった。
これからも、歳を重ね、脳は萎縮する。
少しずつそういうことは増えるのかもしれない。
それでも、彼女の暮らしの中には「理解し合うつながり」がある。
世代や立場を超えて、日々みんなとつながっている。
そういうつながりの中で、いわゆる「症状」は自然に受け入れられているように見えた。
そして、高齢の女性からその学生へ。
何か大切なものが受け継がれていったように見えた。
目には見えないし、言語化も、あるいは意識化すらされないと思う。
けど、この「受け継がれていくもの」こそ、僕は本当に大切で、お金では決して買えないものだと思う。
だからこそ世代間の交流に、これからもこだわっていきたい。
高齢化すれば、身体も脳も少しずつ弱っていく。
それを支えるために医療があり、福祉がある。
その中心にあるのは、病名でも症状でもなく、やっぱり「暮らし」。
この2人のやりとりは、そんなことを改めて教えてくれた。
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