第1319回「根を抜く」

先日はじめ塾の茶畑で、ワラビを抜いているときに、気をつけていたのは、根から抜くということでした。

葉っぱだけをちぎっても仕方ありません。

すぐに根からまた生えてきます。

根がどこにあるのかを探って、その根を抜くことが大事であります。

そんな作業を繰り返していました。

寺にいても、よく蔦や蔓がはびこってしまうのが、気になります。

蔦がよい景色や、日よけになることもありますが、あまりに茂ってしまうと木を枯らしてしまうことにもなります。

しかし、大きな木にいっぱい生えてしまった蔦や蔓を取り除くのは容易ではありません。

蔦というからには、いろんなものに絡んでいますので、簡単にとれません。

とろうにもすぐにちぎれてしまいます。

そんなときにはやはり、その蔦や蔓の根を探します。

藪の中に入っていって、どこにもとがあるのかを探すのです。

これがけっこうわかりにくくてたいへんですが、根気よく探すと見つかるものです。

根が見つかったらしめたもので、あとはその根を抜いてしまうのです。

抜いてもすぐには、蔦は枯れません。

しかし、次の日にはしおれてきます。

数日もしますと、完全に枯れてしまいます。

枯れきったら、あとは自然と落ちてしまいます。

どんなにはびこった蔦でもその根を一本抜けば、全部枯れてしまうのです。

毎年夏になると、こんなことを行っています。

そのたび毎に思うのであります。

私たちの煩悩もこのように、その根を抜くことができればなと。

「根」という言葉には実にいろんな意味があります。

『広辞苑』で調べてみても、

(地・土の意を表す「な」の転か)高等植物の体を支持する栄養器官。ふつう地下にあり、若い部分には無数の根毛を生じ、これで養分・水分を吸収する。

②立ち、または生えている物が他の物に付く部分。もと。ねもと。

③地の中。地下。

④事のおこるもと。物事の元をなす部分。

⑤海底などの岩礁のあるところ。釣りなどでいう。

⑥はれものの下部の固い部分。

⑦心の底。

⑧人の本性。生れつき。
「根は正直者」「根が明るい」などという場合です。

⑨名詞の下に添えて、地に生えている意を表す語。「垣根」という場合です。

⑩鏃(やじり)。矢の根。

というように十もの意味があります。

またいろんな使われ方をします。

「根に持つ」というと、

うらみに思っていつまでも忘れないことです。

「根も葉もない」というと

全く根拠がないことです。

「根を切る」というと、
①病を根治する。

②宿弊を根本から改革する。

という意味があります。

「根を断って葉を枯らす」というのもあります。

これは「わざわいの根本原因を取り除く。

また、大本をそこねて全体を失ってしまう。」

という意味があります。

先日の日曜説教の午後は、一般の方のための「布薩のすすめ」を行っていました。

毎回多くの方が参加してくださいます。

先日も暑い中大勢お集まりくださいました。

みんなで礼拝を繰り返して、懺悔していました。

有り難いことに毎回初めての方もいらっしゃるので、毎回布薩とは何か、戒とは何か、そして礼拝をどのようにするのかを丁寧に解説させてもらいます。

これは、はじめのうちは同じことを繰り返すので、どうかなと思っていましたが、繰り返すうちに、この同じことを繰り返すのがよいのだと思うようになりました。

聞いてくださっている方は、また同じ話か、また同じことかと思われているかもしれませんが、私自身は、この繰り返しがよいと感じるのであります。

そもそも戒とは何かを話していると、毎回自分自身戒について認識が新たになります。

戒とはよい習慣を身につけることだと申し上げていますが、この戒を説明することもまたよい習慣になっています。

三帰依文や三聚浄戒、そして十善戒、どれも大切なものばかりで、毎回お話するごとに自分の心によい習慣が芽生えるのを感じるのであります。

そして懺悔文についても毎回お話しするたびに、懺悔の心がよい習慣となって根付くように感じるのであります。

「根を下ろす」という言葉がありますが、

「その土地に定着する。また、確固たるものとなる」という意味が『広辞苑』に書かれていますが、懺悔や戒の心が確固たるものとなってゆくのです。

懺悔文は、

我 昔より造るところの諸々のあやまちは  
皆、はてしなき むさぼり いかり おろかさによる
身(からだ)と口とこころより生ずるところのもの
すべて我今みな懺悔したてまつる

とお読みして、礼拝をします。

これを三回繰り返しています。

この「昔より」がいつ頃なのか、人それぞれに受け止め方が異なります。

かつては十年一昔と言いましたが、この頃はもっと早いように使われています。

私たちはお互いの命を、この世に生まれてからの命と考えています。

誕生日というのがあって、そこから命が始まっていると考えています。

しかし、それは一応の区切りでしかありません。

仏教では数え年という数え方をして、生まれたときが一歳と考えています。

母の胎内に宿ったときから命があるのです。

その前からも親から命は受け継がれていますので、ずっとつながっていると考えることができます。

その親はそのまた親から受け継いでいますので、命は実は途切れずにずっと連綿と受け継がれているとみることができます。

私たちは、仮にこの世に生まれたときを始まりと考えているのに過ぎないのです。

連綿と受け継がれた命と考えると、戦国時代も生きていましたし、石器時代もまた生きてきて、この命がここにあるのです。

そうしますと、どこかで人を傷つけたり、あやめたりしたことはなかったかというと、ないとは言えないのであります。

そこまで遡らなくても、先の大戦も経験してきてお互いの命があります。

生まれてからは、法律に触れることはしていないと思っていても、遠い過去に遡ればなにがあったかわかりません。

また生まれてから法律には触れないにしても、なにげないひとことが人を傷つけたこともあるでしょう。

また戸を開けたり閉めたりするときに、虫の命をあやめてしまうこともあるものです。

そう思うと、遠い昔から「もろもろのあやまち」を繰り返してきたことになります。

それらを全部取り除くことはできませんが、根を探してゆくと、むさぼり、いかり、おろかさになります。

そのむさぼり、いかり、おろかさにしても更に根を探してゆくと、自我であります。

自分にとって都合のいいもの、心地よいものを必要以上にほしがるのがむさぼりです。

自分にとって都合の悪いもの、不愉快なものを退けようというのがいかりです。

そして自分にとってどうでもよいものに、何の関心も示そうとしないのがおろかさであります。

すべて自分がもとにあるのです。

そこで改めて仏陀の言葉を思います。

スッタニパータ一一一九番に

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、
世界を空なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り超えることができるであろう。」

とあります。

「自我に固執する」、これが煩悩や悪業の根であります。

これをまず心の深い藪の中に入りこんで見つけるのです。

見つけたら引き抜くのであります。

なかなか抜けませんが、抜こうと努力を続けるのであります。

これが根っこだなと気がつくだけでも変わってくるものです。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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