第1321回「広い世界を我が寺とする」

「韜光晦跡」という言葉があります。

「韜光」は「光をかくして外に現さないこと。才徳をかくして外に現さないこと。」です。

「晦跡」は「あとをくらます。世間から身をかくす。」ことです。

悟りを開いた夢窓国師は、そのあと、韜光晦跡の日々を送ります。

それは禅でいう「聖胎長養」にもあたります。

「聖胎」というのは、仏の種子を宿している神聖なる身体をいいます。

「聖胎長養」とは、師から認められて印可を受けた後もなお自重して世に出ずに更に心境を練って修行を続けてゆくことを意味します。

仏国国師のもとを離れて、建長寺玉雲庵にいた一山禅師に夢窓国師は参じました。

夢窓国師は一山禅師に、自分は甲斐に帰り、そこで閑かに過ごして道を養おうと思い、そこで別れを告げに来たと述べました。

一山禅師は夢窓国師に長い法語を与えられた。

甲斐に帰り、更に三十五歳の時に、仏国国師が那須の雲巌寺に隠棲されたと聞いて夢窓国師は、雲巌寺にご機嫌を伺いにゆきました。

また仏国国師のもとを辞して甲斐に帰ります。

三十七歳の夢窓国師は甲斐に龍山庵を結びました。

人里遠く三十里も離れていましたが、道を求める者が多く集まったといいます。

夢窓国師のもとに集まる者は更に増えて、大勢の人が集まるのを好まない夢窓国師は、更に奥深く庵を移しました。

三十九歳のとき、龍山庵を出て浄居寺に戻ります。

更に七、八名の僧を連れて美濃の長瀬山に移ります。

その境致が素晴らしく、そこに庵を建てて「古渓」と名付けました。

ここが後に「虎渓」と改められ、現在の虎渓山永保寺となっています。

来訪する者があまりに多く、四十三歳、古渓を出て都に入り、北山に仮住まいをしました。

四十四歳、鎌倉幕府の執権北条高時の母である覚海尼が夢窓国師を関東に招聘しようとしているのを聞いて、夢窓国師は京を出て土佐に行きました。

庵を吸江と名付けたのでした。

四十五歳、覚海尼は、使者を土佐に使わし、夢窓国師を連れて来なければ帰るなと言い渡します。

使者はもしも夢窓国師を隠すと罪とすると言って各家をまわったのでした。

夢窓国師はついに「業債逃れ難し」と言って、とうとう鎌倉へと赴きます。

覚海尼は礼を尽くして迎えました。

夢窓国師は鎌倉にあった勝栄寺に寓します。

更に夢窓国師は横須賀に泊船庵を建てました。

そしてここに五年ほど隠棲していました。

その時の偈が残されています。

一把の茅茨天宇闊し。
山を籬落と為し海を庭と為す。
菴中の消息、嚢蓋無し。
来る者は猶言う、竹扄を掩うと。

という偈です。

柳田聖山先生は

「茆の小屋は、広い天が屋根で、山々が垣根、海が庭先である。

庵内の暮しときたら、袋一つさえないのに、訪問者は、まだ竹のカーテンをとざしているなどと、口うるさいことだ。」と『日本の禅語録7 夢窓』に訳されています。

「広い天が屋根で、山々が垣根、海が庭先」というように、夢窓国師にとってはこの広い世界が我が寺なのであります。

四十七歳の時、夢窓国師は泊船庵の後ろの山に、塔を建て「海印浮図」と額を掛けました。

塔を建てることで、遠く船で往来する人もその塔を仰ぎ見ることができるし、海の中の魚たちも塔の影が海に映って、その影の下を泳ぐことで、仏の教えと縁が結ばれると願ったのでありました。

夢窓国師の衆生済度のお心がいかに広く深いかがしのばれます。
後に夢窓国師は「發願文」をお作りになって「生々世々恩有る者は、我今悉く其れ恩徳に報いん。生々世々怨を結ぶ者は、我今悉く其れ寃讐を謝せん。生々世々縁無き者は、我今悉く其れ善縁を結ばん。」と述べておられます。

縁の無い者にも善い縁を結ぼうとして塔をお建てになったのだとわかります。

四十九歳で夢窓国師は千葉の夷隅に退耕庵を結びます。

ここに足かけ三年ほど住んでいました。

かくして五十歳までの夢窓国師は、もっぱら修行に励み、韜光晦跡の暮らしをしていたのでありました。

後に夢窓国師は元翁和尚から

「和尚は修行を終ってから二十年あまり、ずっと腰がすわらないで、十余ヵ処にも移っていられる。

わたしはひそかにおもったのだが、これは身を疲れさせ道をさえぎる原因でなかろうか、と。

ところが、近ごろ『像法決疑経』をよんでみると、仏は言われている、

「修行者の坐臥所は、三月を限りとする。

この修行者は腰がすわらぬと言ってそしる人は、地獄にゆくほかはない」

と。それで漸く疑念がなくなりました」と言われた。

夢窓国師は 「わたしは仏の言葉を守って、そうしていたわけじゃない。

ずばり大円覚を住所としているから、東にゆき西にとどまっても、大円覚を離れたことは一度もない。

世間には、長らく一ヵ処に住していても、必ずしも同じ坐席に止まっていない人がいる。

用便を足したり、洗面に行ったり、庭を歩いたり、山にのぼったりする。

これはやはり腰がすわらぬのではあるまいか。

しかし、かれは、ある一ヵ所から腰を離さぬのだから、自分が別の処にいるとは謂えぬ。

自分の固定意識を改めて、限定のない世界に往来するなら、何のとがもあるまい」と仰せになっています。

『西山夜話』にある話で、現代語訳は柳田聖山先生の『日本の禅語録7夢窓』によります。

広い悟りの世界を我が寺としていた夢窓国師のお心が偲ばれます。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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