第1499回「鍵山先生を悼む」2025/2/13
致知出版社のセミナーの講師を初めて頼まれた時でした。
毎月一回講師が話をするのですが、私が講演をする前の月の講師が鍵山先生でいらっしゃいました。
どのようなセミナーなのか、講師の方はどんな話をなさっているのか、一度学んでおこうと思って、その回の講演を拝聴させてもらったのでした。
あらかじめ控え室にご挨拶にゆくと、鍵山先生は端然とお坐りになっていました。
その腰を立てたきちんとした姿勢と、そして満面の笑顔とに、「これが鍵山先生か」と、感動したことを覚えています。
その後、この鍵山先生と対談本まで出版するようになるとは、夢にも思ってはいませんでした。
鍵山先生がどのようなお方なのか、鍵山先生との対談本『二度とない人生を生きるために いつでも どこでも 精一杯』にある著者略歴から紹介します。
「昭和8年、東京生まれ。昭和27年、疎開先の岐阜県立東濃高校卒業。
昭和28年、デトロイト商会入社。
昭和36年、ローヤルを創業。 平成9年9月、東京証券取引所一部上場、同年10月、社名をイエローハットに変更。
平成10年、同社取締役相談役。
平成20年、取締役辞任。
創業以来続けている「掃除」に多くの人が共鳴し、その活動はNPO法人「日本を美しくする会」として全国規模となるほか、海外にも輪が広がっている」
と書かれています。
イエローハットの創業者なのであります。
また掃除を徹底されていて、「日本を美しくする会」の相談役でいらっしゃいました。
そんなご立派な方とご縁をいただくのは実に恐縮でありました。
有り難いことに、その後、円覚寺では二度御講話をしてもらいました。
またPHP研究所の企画で何度も対談をさせてもらったのでした。
忘れがたいのは、平成二十七年の十月に鍵山先生が大病を患われた後のことです。
脳梗塞でご入院なされたのでした。
そしてご退院なされて間もない頃に、寒い十二月円覚寺で対談をさせてもらいました。
寒い日でしたが、そんな大病のあとを全く感じさせないたたずまいに感激したものでした。
対談は合計三十時間を超えるものとなりました。
本のオビには「魂を震わす三十六時間の対論」と書かれています。
初回の円覚寺での対談の折には、そんな大病して退院されたあとだというのに、対談の1時間半前には北鎌倉駅に着いておられたというのであります。
申し訳のないことだと思って次回の対談は鍵山先生のご負担にならないように都内での対談を提案しました。
そのことを出版社に伝えたのですが、なんと鍵山先生は、私の話を聞きに行くのだから、円覚寺まで出向くとおっしゃっているというのです。
そこで私は、その日は対談のあと都内で所用がありますから、その方がたすかるのですと申し上げて豊洲のPHP研究所で対談をさせてもらうことにしました。
対談ははじめPHPの雑誌に掲載されました。
その折りにも出版社としては、社会的にも名の知られた鍵山先生であり、私よりも31歳も年長ですので、二人の名を併記する時には、鍵山先生の名が先になるようにしようとしました。
私もそれは当然ですと申し上げておきました。
ところが、鍵山先生は、私が先で、ご自身は後にするようにと言って譲らないというのであります。
これには恐れ入りました。
日本では昔は、出家した僧を上席にという習慣がありました。
もう今や忘れされていることです。
それを鍵山先生は徹底されていたのでした。
後に対談本となったときにも普通であれば、鍵山先生がまえがき、私があとがきを書くところなのですが、この本は私がまえがきを担当し、鍵山先生があとがきを書かれているのです。
著者の紹介を見ても私が先に掲載されています。
これも今思うと有り難いご教示であります。
元来僧というのは、このように世の中では大切にされる存在なのだから、しっかり修行してそれにふさわしい人間になるようにとのお示しだと思うのです。
豊洲のPHP研究所で対談した折には、鍵山先生をお待たせしないようにといつも円覚寺を早めに出ていました。
あるとき、対談の一時間も前に着いてしまい、さすがに鍵山先生もまだだろうと思って駐車場の車の中で待っていると、なんと研究所の玄関には、既に鍵山先生がお待ちくださっていたのでした。
あわてて車を降りて、PHPの中に入りました。
午前十時から対談のところを、九時前に鍵山先生と私が到着するのですから、あわてたのはPHPの方でありました。
ほんとに凡事徹底なされていました。
凡事徹底の言葉も鍵山先生によって知られるようになったと感じます。
あたりまえのような平凡なことを徹底してやり抜くことなのです。
令和二年の二月に、ご自宅にお見舞いをしたのが、生前お目にかかった最後となりました。
ご子息の鍵山幸一郎様からは近況をうかがっていましたが、この一月二日鍵山先生はご逝去なされました。
九十一歳でいらっしゃいました。
鍵山先生からうかがった話で印象に残っているのは疎開先でのお母様の話であります。
鍵山先生のお母様は裕福な家のお生まれだったそうですが、東京大空襲ですべてを失い岐阜の山中で疎開されていたのでした。
『二度とない人生を生きるために』にも
「一日働いて、手にする報酬はわずかに米一升。
それでも愚痴を言わずに働き続けていました。
そんな厳しい中でも、母はつねに身の回りを整え、掃除をして、生活を美しくしようと努力しておりました。
母からはまさに「忍の徳」を教わったように思います」と書かれています。
「愚痴一つ言わず、ただ黙って鍬をふり続ける姿」を見て幼い鍵山先生も「少しでも母を楽にさせたい。その思いが、私を変えました。」と語ってくださったことを覚えています。
鍵山先生は「二十八歳で会社を起こし、自転車一台で行商を始めたころ、心を支えたのは、そんな父や母の後ろ姿でした。」とおっしゃっていました。
それからその疎開先で大きな影響を与えたのが佐光義民先生という方でした。
鍵山先生は、もしかしたらこの先生に会うために、疎開して岐阜の山奥へ行ったのではないかと思うほどだと仰せになっていました。
鍵山先生がいつも姿勢が美しいのも、佐光先生から厳しく教えられたからだというのです。
佐光先生は、「姿勢の指導も厳しくいつも背筋を伸ばせということをよくおっしゃっていました」と語ってくれていました。
鍵山先生の美しい姿勢を思い出してご冥福をお祈りします。
横田南嶺