第1437回「形のないいのち」

ブッダが何を悟ったかについて、玉城康四郎先生が『無量寿経 永遠のいのち』(大蔵出版)に書かれています。

一部を引用します。

「ところで、ブッダが悟りを開かれました時に、三つのウダーナが歌われております。
初夜、中夜、後夜、つまり、日暮れ時、真夜中、それから明け方、それぞれ歌われております。ここでは、その三つの歌を一つにして挙げてみましょう。

「ダンマが熱心に禅定に入っている修行者に顕わになるとき、その時、一切の疑惑が消滅し、ついには太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕して安らかになっている」。

最初のダンマ というのはパーリ語でありまして、 サンスクリット語ではダルマ、即ち「法」と訳されております。
法にはいろいろな意味がありまして、法則、原則、規則、或は教え、説法、行為など、さまざまであります。

そして揚げ句の果ては、ありとあらゆる存在するものまで法と呼んでいるのであります。

「諸法無我」という諸法とは、すべての存在するものという意味であります。

ところが、ここではそのいずれでもないのであります。

では、いったい、ここでダンマというのはどういう意味であるのか。実は、それはまったく説明ができないのであります。」

というのであります。

「ダンマ」は説明できないというのです。

更に玉城先生は、

「経典全体のどこをさがしても、ブッダはこのダンマについてコメントをつけておられません。

想像してみますに、一切の疑いが晴れて全人格体がサーッと開かれたときに、その開かれたそのものをたまたまダンマと名づけたのでありましょう。

従いまして、強いて説明するならば、まったく形のないいのちの中のいのち、純粋生命とでもいう外はありません。

しかし、純粋生命といったときに何かのイメージを描くならば、それはまったくここにいうダンマではないのであります。」

と説かれています。

「この形のないいのちそのものであるダンマがゴータマに顕わになった時、その時、すべての疑惑が消滅する、いいかえればダンマ、形のないいのちそのものに全人格体が充たされる。

これが悟りの原点であります。

そうするとすべての疑惑がなくなって、やがて太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕する。

悪魔の軍隊というのは煩悩をさしております。

つまり、あらゆる煩悩を粉砕して、全人格体がスーッと安らかになったのであります。

これこそがブッダの悟りの光景でありまして、まさしく仏教の始まりであります。

そのダンマ、全く形を離れたいのちそのものは、つねに働いてやまないものであります。

そのダンマが経典の中でやがて如来と呼ばれております。」

というのです。

形のないいのちというと、『臨済録』の「心法無形」を思います。

岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の訳によると、

「諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。

眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。

その一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。」という言葉です。

またこれは臨済禅師のお師匠さんである黄檗禅師の教えにも通じます。

筑摩書房『禅の語録8 伝心法要・宛陵録』に次のように説かれています。

入谷先生の現代語訳です。

「師は裴休に言われた、あらゆる仏と、一切の人間とは、ただこの一心にほかならぬ。

そのほかのなんらかのものは全くない。

この心というものは、初めなき永劫の昔よりこのかた、生じることもなく、滅ぶこともなく、形体もなければ、相貌もなく、有るとも無いとも枠づけできず、新しいとも古いとも定められず、長くもなく短くもなく大きくもなく小さくもなく、どのような計量と表現のしかたをも越えてあり、どのような跡づけかたと相対的な接近法からも遠く離れてあり、つまりは、そのものそのままがそれであって、それについての思念が働いたとたんに的をはずすことになる。

それはちょうど涯もなくて測りようもない虚空のようなものだ。

ほかでもないこの心こそが実は仏にほかならぬ。

仏と人間とは、だからなんら異なるところはないのだ。

ところが、すべて人間というものは、姿かたちにとらわれて、おのれの外に仏を求めようとする。

求めれば求めるほど、それは見失われるばかりだ。」

というのです。

更に馬祖禅師が、

「一切の衆生は永遠の昔よりこのかた、法性三昧より出ることなく、常に法性三昧の中にあって服を着たり、飯を食ったり、おしゃべりしたりしている。

(即ち衆生の)六根の運用きやあらゆる行為が全て法性である。

しかるに、その本源に返ることができず、(悟りを求めて)名や形を追いかけまわせば、本源を見失った情がむやみに生起して、いろいろな業因を造ることになる」と説かれています。

これは禅文化研究所『馬祖の語録』にある言葉です。

この法性三昧が、まさにダンマであるといえます。

まさに盤珪禅師が「不生の仏心」と説かれたところであります。

形のないいのちそのもの、それが、今この体にはたらいているのであります。

その自覚が大事なのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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