第1346回「三回目の三者三様の法話会」

一昨年に、龍雲寺の細川晋輔さんと須磨寺の小池陽人さんと私の三人で、三者三様の法話会というのを、円覚寺で催しました。

それが好評だったのか、昨年には、須磨寺様を会場にして三者三様の法話会を開催しました。

今年で三回目の三者三様の法話会を細川さんのお寺世田谷区野沢の龍雲寺で開催しました。

おかげさまで盛会でありました。

小池陽人さんには、遠く神戸からお越しいただきました。

今までの三者三様の法話会は、各自が自由に話をしていたのですが、今回は、共通のテーマを決めて行いました。

それは「今、ここ」であります。

最初の法話は、細川さんが務めてくれました。

今ここを生きる幸せをとても力強くお話くださいました。

禅のさとりをもしひとことで表すなら今ここを生きるということに尽きるとはじめに仰せになりました。

まさしくその通りなのであります。

実際には今ここに生きていない人はいません。

皆間違い無く今ここを生きているのです。

しかし、なぜ今ここを大切にというのか、実は今ここを生きるということは簡単のようで難しいのです。

森信三先生は「人生二度なし」とよく説かれました。

これもまさにその通り、誰にとっても人生二度ないものです。

しかし、森先生は、「この明白な事実に対して、諸君たちは、果たしてどれほどの認識と覚悟を持っていると言えますか」と『修身教授録』で問いかけておられます。

そんな森先生の言葉を紹介されながら細川さんは、祖父である松原泰道先生の話をなされました。

松原先生は、晩年に朝目が覚めると感動して合掌するのだと仰っていたということです。

それも毎朝涙が出るくらい朝目が覚めることに感動なされていたそうなのです。

おかげさまといって目が覚めること、この目が覚めたこと、このことに勝る幸せはないというのです。

この話だけでも胸打つものがあります。

そんな気持ちで毎日朝を迎えて暮らすことができれば、それこそ今、ここを生きる実践であります。

細川さんは、今晩いただく夕ご飯が、人生最後のご飯になるかもしれない、今晩布団の中に入ったら、朝目が開かないかもしれないとお話になっていました。

その通りなのですが、このことを真に実感して生きることは難しいものです。

細川さんは、ご自身朝目が覚めたら、今日はゴミの日だと思うといって笑わせてくれていました。

それから松原泰道先生が百歳を迎えた朝何を思ったかという、とある出版社の方に聞かれた話を紹介されていました。

松原先生は母を思ったというのです。

百歳の誕生日の朝何を思われましたかと聞かれた松原先生は、即答なされました。

「やはりお母さんありがとう」ですと。

松原さんのお母さんは松原さん三歳の時になくなっています。

ですから、自分が長生きできたのは、母が自分の命を私にくださったのだというのです。

もともと松原先生はお体が丈夫ではなかったようです。

二十歳まで生きられるかと言われていたほどでした。

三十八歳で招集を受けて出征し、無事帰ってこられたものの、栄養失調で肺結核にもなっています。

それが百歳まで長生きできたのだから、「お母さんありがとう」と思ったというのです。

更に細川さんは、生きつつあることは死につつあることでもあるとお話くださいました。

一日生きることは一日死に近づくことでもあります。

そんな限りある命をどう生きるか、細川さんは正岡子規の言葉を紹介してくれていました。

「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」

という言葉です。

平気で生きるということもまた難しいものです。

この平気で生きるということこそが今ここを生きることであります。

しかし、私たちがどうして今ここに生きられないか、細川さんは、それは比べてしまうからだとお話くださいました。

過去と比べる、未来と比べる、他人と比べる、これが今ここに生きられない原因であります。

『お寺の掲示板』にあった「となりのレジは早い」という言葉から細川さんは比べない生き方を説いてくれました。

よそと比べることをせずにいまここが最高、最良だと思って生きるのです。

これが禅の教えであります。

しかし細川さんは、とある方から、では今紛争に苦しんでいるような人にも、今ここが最高だと言えるのかと問われたという話をなされました。

今過酷な状況にある人に、今幸せな日本で暮らしている私たちが、今ここが最高だと言えるのかというのです。

厳しい問いかけであります。

細川さんはどう話を進められるのかとても興味が湧いてきました。

そこでジブリの「火垂るの墓」の話をなされました。

ジブリを見ることのない私も、かつてジブリの鈴木敏夫さんと対談した折に、この映画を拝見したことがありました。

悲しい戦争の話であります。

しかし、この映画、監督の高畑勲さんは悲惨さだけを画いたのではないというのです。

戦争の中でも子どもたちは声をあげて笑うこともある、そんな日常を画いたというのです。

そしてそんな日常を破壊する戦争は許せないのだと。

子どもたちは、どんな状況でも楽しみを見つける天才だと細川さんは仰います。

小さなお子さんをお育てになっている細川さんならでは視点です。

それには心の受信装置を高くすることだというのです、

幸せのサインを見落とさないようにすることなのです。

毎日の何気ない景色のなかにも花が咲き、鳥が鳴いています。

そんなことに気がつき感動する心を失ってはなりません。

そして最後に細川さんはご自身の著書『迷いがきえる禅のひとこと』(サンマーク出版)から「活潑潑地」という禅語を紹介されました。

その日細川さんが紹介された部分を引用させてもらいます。

初めて食べて「おいしい」と思ったものも
毎日食べていると「おいしい」と感動しなくなる
初めて見て「美しい」と感動した景色も
毎日眺めていると、普通に見えてしまう
知識や経験がありすぎると
こころは躍らなくなってしまう
こころを、からっぽにしてみよう
昨日とおなじ日などないのだから
毎日通う、通勤路
毎日家の窓から眺める、景色
そこにも毎日、新しい発見がある
緊張して初めて
仕事を仕上げた日のことを
思い出してみよう
戸惑いだらけで
新しい生活を始めた日のことを
思い出してみよう
慣れて
感動に鈍感になるのではなく
一瞬一瞬に
ういういしさを求めていこう
忘れていた
新鮮なこころは
今、ここに

という言葉です。

こうして実に見事に今、ここに収まって法話を終えられたのでした。

さすがと思わせる感動の法話でありました。

そして改めて『迷いがきえる禅のひとこと』がよい本だと思いました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?