第1306回「死ぬまでのことだ」

松原泰道先生がお亡くなりになったのは、今から十五年前の七月二十九日でありました。

ほんの三日前まで、喫茶店でご法話をなさっていたとうかがいました。

喫茶店での法話というのは、松原泰道先生がおはじめになった南無の会の活動の中心でありました。

最後までお寺でなく喫茶店でお説法なされていたのは、先生らしいと思ったものです。

お加減がよくないと聞いていながら、その日は都内にいまして、訃報を聞いて、すぐに三田の龍源寺にお参りにゆきました。

お布団の上に静かに横たわる先生に手を合わせて誦経をしたのでした。

そばには、色紙が置かれていて、その色紙には、あらかじめ用意なされていた、遺詞が書かれていました。

「私が死ぬ今日の日は、私が彼の土でする説法の第一日です」というのであります。

先生からはじめて頂戴した『一期一会 禅のこころに学ぶ』にこんな話があります。

曹洞宗の森田悟由禅師のお話であります。

「以前、ある書物が必要になって本箱を捜していると、偶然にも中野東英師の『好きな話』という書籍が目にとまった。

中野師は数年前に亡くなったが、曹洞宗の碩学で布教にも大きく貢献されたこの書は書名が示すように、中野氏が自分の好む話材を長年にわたって収録されたものである。

その中の一編をここに紹介する。

中野師の知人に油井真砂子さんという婦人がある。

彼女は若いころ医学を志望し当時の女子医専を卒業後、結核菌の研究に没頭する。

ところが不幸にして彼女は結核菌に感染して、自らが結核患者として病床に横たわる身となる。

彼女は懊悩の末に、当時名僧の誉れ高い森田悟由禅師(一九一五年没)がたまたま永平寺から上京されたのを機に、禅師を訪ねて自分の苦悩を訴えて、その教えを求める。

「わたくしは、まだ若い女でありますが、病菌研究中に病み死に瀕しております。

研究半ばで倒れるのは耐えられません。

私は、一体どうしたらよろしいのでしょうか―」

と、涙ながらに一部始終を語る。」

という一文が目にとまりました。

切実な問いであります。

悟由禅師は、名僧の譽れ高い方でした。

どうお答えになったのか気になります。

文章はこう続きます。

「悟由禅師は瞑目したまま、彼女の長い身上話を聞いておられたが、話がひとくぎりついたところで、おもむろに口を開いて、

「あんたの話は、それだけかね」と聞き返す。

彼女はまだまだ話したいが、やむなく、「はい」と答える。

悟由禅師は静かにうなずくと、ゆっくりとした語調で逆に彼女に、
「あなたの病気を、わしが何とか出来ると思っていなさるのか?」と問いを発する。

当人の油井真砂子さんにしてみれば、これだけわが身の苦悩を訴えたのだから、それなりに温かい慰めの言葉が聞けるものと思っていたのに、思いもよらぬ冷酷そのもののあいさつである。

彼女は、なおも取りすがり、

「わたくしは、死に追われているのです。

死ななければならないのです。どうしたらよろしいのですか?」

「死ぬまでのことだ。あんた一人死んでもどうということはない」
と、禅師の言葉は相変わらず、にべもない。

悟由禅師は、そう言い終えると奥へ引っこんで、再び彼女の前へ戻っては来なかった。」

というのであります。

一読すると、実にひどい対応のように感じます。

文章を読むと「油井真砂子さんは、たよりにしていた一本の細い糸のような望みが無残にも断ち切られた悲しみと、冷たい悟由禅師の慈悲のひとかけらもない言葉への烈しい怒りからか、その場にかっ血してしまう。

ようやく雲水さん達の介抱を受けて彼女は帰宅する。」と書かれていますから、たいへんな状況となったのだとわかります。

しかし、そのあとにはこう書かれています。

「彼女は病床の中で数日間にわたり、悟由禅師の言葉を怒りと悲しみと恨みをもって反覆する。

高僧の言葉だ。

無慈悲にひびくが、その氷のような冷厳な言葉の底に、必ず何かがあるに違いないと、禅師のけんもほろろな叱責を、今度は吟味の上にも吟味する。

しかし、彼女は悟由禅師の真意がつかめぬままに、「よし、死んでやれ」と決心する。

それまでは、死にたくない心で一杯だったが、「死んでやれ」に変わる。

油井真砂子さんは、この覚悟を病軀にこめて郷里の信州に帰り、ある洞窟にこもる。

この洞窟は、昔、山中鹿之助が参籠して身心鍛練した場所だという。

彼女は、ここで必死になって坐禅を組み、さらに断食生活に入る。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれとも、飛びこんだ力で浮かぶかなともいう。

死の覚悟があって、はじめて物事は成就する。

おもうに、常識では起こることは到底考えられないような不思議な力は、偶然に与えられるものではなく、精一杯死にもの狂いで努力して、はじめて得られるのである。

油井真砂子さんの健康は、うそのように次第に回復していく。

このとき、彼女ははじめて森田悟由禅師の冷酷な言葉が、真実の教えからの叱責であることに気づく。

悟由禅師の非情とも思われる叱責は、禅師自身も決死の思いで吐かれた死の叱責の事実を思うべきである」

と書かれています。

これなども実に深い、深い教えであります。

とてもまねができるものではありません。

森田悟由禅師もまた死を乗り越えて修行をされたのだと察します。
「死ぬまでのことだ」、重いひとことであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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