第1337回「無理のない精進」

昨年の春に、六十代の修行僧を二人、修行道場に迎えました。それぞれ定年を迎えて、その後第二の人生を僧侶として送ろうとお考えになったのでした。

今までも五十代、六十代の修行僧を迎えたことがありましたが、なかなか難しいものでした。

修行道場にいる者のほとんどは、二十代ですので、まず二十代の若者と一緒に暮らすというのはたいへんなことです。

やはりどうしてもある程度の体力がないと修行できません。

体力があってできるとしても、それを一年三百六十五日継続しないといけません。

いっときほんの一ヶ月くらいなら、無理もきくかもしれません。

しかし、それでは一年もたないのであります。

今からもう十年以上前の管長侍者日記に、次のような言葉があります。

「修行というのは厳しくしようと思えばいくらでも厳しくできるのですが、はたして、それで良いのかというとそうではありません。

江戸の銭湯というのは昔から熱いと言われています。熱い風呂に「はっ!」と気張って入るのが江戸っ子の一つの粋な文化でした。確かに、熱い風呂に辛抱して入ると、「オレは、風呂に入ったぞ!」という気になる。

しかし、それでは、かえって湯冷めして風邪をひいてしまう場合も少なくありません。それで本当に体が暖まったかというと、これまた別なんです。

むしろ、我々の修行は「ぬるま湯につかるようにやれ」と昔からよく言われています。

ぬるま湯なんかじゃ駄目だと思われるかもしれませんが、本当のところは、ぬるま湯に長くつかっている方が本当に体が芯から暖まるのです。

その時その時に適したものとなるように湯加減を調節していきたいと思います。」

と書いています。

私自身、若い頃に「ぬるま湯」に入っているような修行ではだめだろうと思っていました。

しかし、この頃になって。長くつかって、芯まで温まることが大事だと思うようになりました。

六十代のお二人も無事に一年の修行を終えて、道場を旅立ってゆきました。

ご自身はそれぞれかなりの苦労をなされたと思います。

修行道場としてもできる限りの配慮をさせてもらいました。

続けばこそ、意味があるので、続かないことを無理強いしても意味がありません。

『円覚』秋ひがん号ができました。

「からだで学ぶ仏教ー無理のない精進ー」という題で、私が巻頭に書いています。

今は円覚寺のホームページから、私の原稿のみ読めるようになっていますので、ご関心があればご覧ください。

そこにはイス坐禅のことを精しく書いておきました。

イス坐禅に取り組むようになった経緯から書いています。

そのなかに、

「禅はどこでも、どんな形でもできるものです。形にとらわれることはないはずなのです。
それから、やはり禅は日常の暮らしの中にこそあるものだという思いもございます。

今土曜や日曜日にお寺で坐禅をするというのは、やはり非日常を体験し味わったもらうものでしょう。

月曜から金曜まではたらいて土日を利用して、お寺で坐禅して非日常を味わうのもとても良いことです。

しかし、禅は日常の中にもあるのではないでしょうか。毎日はたらいている仕事場でも出来る禅をやってみたいと思ったのでした。」

と書いています。

馬祖道一禅師の言葉に、

「道は修習する必要はない。ただ、汚れに染まってはならないだけだ。何を汚れに染まるというのか。

もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。

もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。

何をあたり前の心というのか。

ことさらな行ない無く、価値判断せず、より好みせず、断見常見をもたず、凡見聖見をもたないことだ。

経に言っている、『凡夫の行でもなく、聖人賢者の行でもない、それが菩薩行である』 と。

今こうして歩いたり止まったり坐ったり寝たりして、情況に応じての対しかた、それら全てが道なのだ。」

道というのはつまり法界である。

更には、浜の真砂ほどの秀れた働きも法界を出るものではない。

もしそうでなければ、どうして心地法門といい、どうして無尽灯というのか」

というのがあります。

禅文化研究所の『馬祖の語録』にある入矢義高先生の訳文です。

「今こうして歩いたり止まったり坐ったり寝たりして、情況に応じての対しかた、それら全てが道なのだ。」だということが大切であります。

イスに坐って作業している時もまた道なのです。

ただ既に体によくない習慣がついてしまって、ながく坐ると腰を痛めたりする姿勢になることがありますので、いささかの矯正をしないといけないのです。

その方法をあれこれと考えて「イス坐禅」を行っています。

それから「布薩」についても書いています。

これも戒というよき習慣を身につけるためであります。

どちらもからだで学ぶ仏教です。

そしてそれは、無理なく学べるものです。

巻頭の色紙には、

「吾が道、一以て之貫く」と書いておきました。

無理のない精進を息長く続けるには、そこに貫く願いがないといけません。

命あるものが皆お互いを傷つけることなく、幸せになるようにという願いであります。

『円覚』誌には、ほかにも「信心ことはじめ」、「明治居士列伝」、それに漢方医の桜井竜生先生が、「熱中症と夏バテの違い」と題して書いてくださっています。

「信心ことはじめ」には、今回は「彼岸花」にまつわる俳句を紹介してくださっています。

「明治居士列伝」は川尻宝岑居士について書かれています。

桜井先生は、暑熱順化ということについて教えてくれています。

暑さ寒さの変化にどう対応するか具体的な方法が書かれていてたすかります。

今は年間購読もできる『円覚』誌であります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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