第1344回「手なしで渡せ」

その土地に行ってみないと分からないことがあります。

今回大燈国師のご生誕地である宝林寺さまにお参りして改めて思いました。

いただいた地元の資料には、「村の古老から聞いた話」だとして、参勤交代の大名が宝林寺の門前の街道を通るときに、宝林寺の山門が見える参道のところで、駕籠を止めて、虔し国師に拝礼していったという話が書かれていました。

それほどまでに大燈国師は尊崇されていたということであります。

大燈国師と同時代を生きた禅僧が夢窓国師であります。

このお二人はよく対比して説かれることがあります。

夢窓国師は建治元年一二七五年のお生まれで、大燈国師は弘安五年一二八二年のお生まれです。

夢窓国師が七歳の年上であります。

ただ夢窓国師は、当時としては長生きで観応二年一三五一年に七十七歳で亡くなっているのに対し、大燈国師は建武四年一三三七年五十六歳でお亡くなりになっています。

宝林寺の西村宗斎和尚は、大徳寺で御修行された方でもあり、大燈国師の生誕地の住職もなされただけに大燈国師への尊崇の思いはとても強かったと思います。

大燈国師の生涯をわかりやすくした紙芝居もお作りになっていたほどでした。

その紙芝居を絵本にしたものを先日頂戴しました。

その絵本では一般の方にも興味をもってもらえるようにと、はじめに一休さんが出来てきます。

大燈国師は知らなくても一休さんなら誰しも知っているということでしょう。

その一休さんが「ワシが一番尊敬しているお坊様、京都紫野、大徳寺の開山大燈国師」だとして話が始まっています。

一休さんは、虚堂禅師と共に大燈国師も尊崇していました。

虚堂禅師のお弟子が大応国師で、そのお弟子が大燈国師であります。

大燈国師のお生まれになったのは、ちょうど鎌倉で円覚寺が建立された年でもあります。

両親が良い子が生まれますようにと書写山円教寺の如意輪観音に祈って授かったのでした。

書写山円教寺は、西の比叡山と呼ばれるほどの名刹であります。

絵本には、

「鎌倉時代の終わりの頃、一人の男の子が播州揖保川のほとり、浦上一国という武将の家に生まれたんじゃ。

母は赤松円心の姉さんだ。」

と書かれています。

更に「この少年が、書寫山に入ったのは、十一歳だ。

一度読んだ本はすぐに覚えてしまうほど優秀で、皆が「あいつは神童だ」と噂したんだそうだ。

そうして六年間、一所懸命学問に励み、時には山の中で坐禅を組むという毎日だったそうじゃ」

というのです。

西村和尚は、ご生前宝林寺から書写山まで子どもたちと歩いて行くということを何度かなさったとうかがいました。

大燈国師が十一歳の時だというので、その年の子どもたちを中心に歩いたというのです。

およそ二十キロくらいあろうかと思います。

昔の人が歩いたところを実際に歩いてみるというのは良いことです。

大燈国師は十七歳で禅を求めて京都に上りました。

三年後の二十歳で、鎌倉の建長寺などで参禅しました。

さらに仏国国師に参禅しました。

一三〇四年のことです。

夢窓国師が鎌倉で仏国国師に参禅したのが一三〇三年で、その年の秋には鎌倉を出て、一三〇四年には内草に行っていますので、このお二人が仏国国師のもとで一緒だったかは分かりません。

すれ違いだったように感じます。

夢窓国師は仏国国師の法統を受け継ぐのですが、大燈国師は仏国国師のもとで正式に出家しますものの、仏国国師が大燈国師に大応国師に師事するように言いました。

そこで大燈国師は大応国師に参禅しました。

大応国師に悟りを認められ、更に二十年長養するようにと言われます。

聖胎長養といって、母胎に宿った胎児を大事に育てるように、悟りの心境を大事に養ってゆくことを言います。

五条の橋の下で過ごしていたと伝えられています。

絵本には、次のように書かれています。

時の花園天皇が、大燈国師の噂を聞いて是非会いたいと思われました。

絵本には花園天皇となっていますが、後醍醐天皇だという説もあります。

しかし大燈国師は鴨川の五条の橋のあたりで大勢の人たちに混ざって暮らしていて、探すのは難しいと言われました。

絵本には、

「妙超の好物が播州名物の「まくわ瓜」だと知って、一計を案じた」と書かれています。

ある日、役人が五条の橋の下へ行き、まくわ瓜の施しをしました。

群がる人たちに向かって、

「足なしで歩いて来たものにこのまくわ瓜を与える」と言ったのでした。

皆は茫然として何もできなかったのでした。

そのとき、髪はぼうぼうで、筵を背中から着た大燈国師が、それを聞いてその役人に

「手なしで渡せ」と言ったのでした。

そこで「この男こそ大燈さんだ」

と見破られてしまって、朝廷に召し出されたという話であります。

なぜまくわ瓜なのか、私はいまひとつよく分かっていませんでしたが、宝林寺様を訪ねて、大燈国師のふるさとの名物で、好物だったと分かりました。

人を寄せ付けない厳しさの大燈国師ですが、ふるさとの名物が好物だったという話には暖かい人間味を感じます。

大燈国師が五条の橋のあたりで乞食をしていたという話として伝わっています。

大応国師から印可を受けた翌年に大応国師はお亡くなりになっています。

大燈国師は京都東山の雲居庵に隠れ住んでいました。

その時に景徳伝灯録という膨大な書物を書写されたりしています。

これは中国の伝統の祖師の行履や言行を記した書物です。

そうして四十五歳で大徳寺を開堂されたのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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