第1492回「臨済録を読んで」2025/2/6
もう今から十年前に、麟祥院で小川隆先生にご講義をいただくようになって、私も語録の読み方がずいぶんと変化しました。
とても小川先生のようなお方には及びもしませんが、少しは言葉の意味を調べるようになりました。
どうも、それまでは大まかな、言わんとするところが分かればよいという読み方でありました。
はじめ小川先生の綿密な講義を聴き始めた頃は、そんなに厳密に言わなくても、言わんとしているところはたいして変わりはないのになどと思ったりしたものでした。
しかし、十年来、語録を専門に読まれている先生の謦咳に接してきて影響を受けたのでありました。
『臨済録』の講義が始まった当初、中国語の補語の説明で、ずいぶん長い時間ご講義をくださったことを覚えています。
補語は動詞のあとについて、述語の結果、程度、方向、可能、状態、数量、目的などを表すものです。
これもずいぶんと勉強になったものです。
先日も私が、『臨済録』を講義した折りに、「師、棒を接住して、一送に送倒す」という箇所について、補語を解説したのでした。
このところは、岩波文庫の『臨済録』で、旧版の朝比奈宗源老師の訳と、入矢義高先生の訳文では微妙に異なっています。
朝比奈老師は「その棒をつかまえて、ぐっと一押しに黄檗を押し倒した。」と訳されて、入矢先生の訳では「その棒を受けとめて、ぐっと一押しに黄檗を押し倒した」となっています。
「接住」を朝比奈老師は「つかまえて」、入矢先生は「受けとめて」と訳されているのです。
「接」は「送る」の対になる言葉で、「やってくるものを受け取る」という意味です。
そのあとの「住」が「接」という動作の結果を表す補語で、受けとめた結果、とどめることを表します。
受けてはなさずにそのままとどめていることから、入矢先生は「受けとめて」と訳されています。
補語を活かした訳になっているのですと解説をしたのでした。
後日小川先生とお話していて、この「接住」の訳について、たしかに入矢先生の訳は、補語を活かしているけれども、朝比奈老師の「つかまえて」も、入矢先生の「受けとめて」もその言わんとしている内容は変わらないではないかとご指摘を受けました。
なるほどと思いながらも、私は心中苦笑していました。
どこかで聞いたような言葉だと思ったのです。
そうです、十年前は私が小川先生の解説を聞いていて、「言わんとしていることは変わりないではないか」と思っていたのでした。
これは先日紹介した臨済禅師と麻谷禅師との問答のようにお互いの立場が入れ替わったのでしょうか。
こういうことが起きてくるのも勉強してきた醍醐味だと思うのであります。
少なくとも、私が小川先生に教わるまでは「接住」の訳など気にも止めなかったと思います。
そんな次第で『臨済録』を読んでいると、いろいろと気になるところがあるものです。
先日も気になったのが、「師、一日、僧堂前に在って坐す。」という所です。
岩波文庫で入矢先生は「師は僧堂の前で坐っていた」と訳されています。
こちらは朝比奈老師も同じであります。
この僧堂の前で坐っていたというのは、どういう状況なのかよく分からないのです。
禅文化研究所の『臨済録』で、山田無文老師は「臨済が僧堂で坐禅しておると」と提唱されているのです。
まずこの場合の僧堂というのは、今日の禅堂のことです。
『禅学大辞典』には「僧堂、聖僧堂の略称。雲堂・枯木堂 ・大徹堂・選佛場とも呼ばれる。禅門における修道の根本道場。唐宋以来、堂の中央に聖僧を安置して、衆僧が常にこれを囲んで周囲に単(坐牀)を設け、起臥して日夜坐禅辨道する道場である。
雲水僧が集まり来るという意で雲堂、佛祖を選出する道場の意から選佛場といい、 中には常に枯木然として兀坐が行ぜられているので枯木堂などの名称を生んだ」
と解説されているのです。
その禅堂の前で坐っているというのがよく理解できないのです。
そこで山田無文老師の提唱を読んで、かつて小川先生に「前」という字は、何々の前ということではなく、場所を表すことがあると聞いたのを思い出しました。
もしそのように読めるのであれば、これは僧堂でという意味になります。
僧堂で坐禅していたというのであれば問題がなくなるのです。
早速小川先生にうかがってみますと、小川先生もまたこれは「僧堂で」と訳すのがよいという教示をいただきました。
「~前」は名詞の場所化だというのです。
覚範恵洪『冷齋夜話』巻6「宋景淳詩多深意」条、「鄰寺の齋鐘(さいしょう)を聞かば即ち焉(ここ)に造(いた)り、海衆(かいしゅ)の食堂(じきどう)前に坐し、飯罷(おわ)らば徑(ただ)ちに去る」
という用例を示してくださいました。
ここに食堂前とありますのでは、食堂の前に坐ったのではなく、食堂に坐ったのです。
「前」は、場所を表しているというのです。
無文老師がどのような意で、「臨済が僧堂で坐禅しておると」と訳されたのかは分かりませんが、ここはそのように読んだ方がよいのではと思いました。
しかし、実際のところ、この時代の禅堂ではどのような状態だったかは分かりません。
修行僧が皆禅堂の中に入って坐禅しているというのは今の時代の様子であって、この時のことは分からないのです。
かつて戦前は臨済宗の修行道場も百名近くも修行僧がいたのでした。
私の得度の師である小池心叟老師も昭和十一年修行道場に入門されています。
同期に入った者も十数名もいて、僧堂は七十名もいたというのです。
禅堂に入れるのは三十から四十名ほどですから、はじめのころはとても禅堂の中に坐ることなど出来なかったと言われていました。
いつになったら、あの禅堂の中で坐禅できるようになるのかと思ったとおっしゃっていました。
食堂でもそうであります。
そんな何十名も建仁寺の僧堂の食堂に入れませんので、食堂のはるか外で残りをいただいているだけで、いつ食堂に入ってお粥をいただけるようになるのかと思っていたというのです。
『臨済録』でも、黄檗禅師にいらっしゃった頃は、臨済禅師の修行時代なので、まだ会昌の破仏の前で、黄檗禅師のもとにも何百名もの修行僧が集まっていた頃であります。
ひょっとしたら禅堂の中に入れるのは一部で、禅堂の前でも坐っていたのかもしれません。
そんなことをあれこれ考えていましたら、ふと「言わんとしていることはたいして変わりはないではないか」というかつての私の声が聞こえてきて覚えず失笑したのでした。
横田南嶺