第1301回「ごまかさずに受け入れる」

七月の末に、花園大学で政道徳門老師の授業を拝聴してきました。

そのことについて、昨日書いたところでした。

今の一呼吸を最大限の敬意を表して味わうのだという、素晴らしいお示しをいただきました。

感動しながら、ノートに老師の言葉を書き取っていました。

感動の言葉はそれだけではありませんでしたので、もう少し書いてみます。

ご講義では、『無門関』の第一則、趙州和尚の無字の公案と、第二則の百丈野狐の公案を取り上げてくださいました。

一呼吸をありのままに味わうという工夫から、無字の公案へと話が展開されてゆきました。

無字の公案というのは、趙州和尚に犬にも仏性がありますかと問うと、趙州和尚は「無」と言ったという問題です。

この無の一字を公案として工夫するのです。

『無門関』を編纂した無門慧開禅師は六年間もこの無の一字を工夫して、ある日お昼ご飯の合図の太鼓の音を聞いてガラッと悟ったのでした。

無の一字を公案として工夫することを、政道老師は、無を心に抱きながら生活するのだと説いてくださいました。

更に具体的に、無の一字と共に掃除をし、ご飯を食べてと一日暮らすのだというのです。

ここで感動したのが、老師が、自分自身この無字の工夫がなかなかうまくゆかなかったと仰せになったことでした。

無の工夫を説かれる老師方は多いのですが、こんなことを言われるのは初めて聞きました。

これもまた老師の素晴らしさだと感服しました。

やはりここも「不昧」ごまかさないのであります。

「無」の一字に如何なる意味づけもせずに無とひとつになってゆくと、自我という意識が落ちるのだと説いてくださいました。

『無門関』には、「内外打成一片」と説かれていますが、自然に内外ひとつになるのです。

それは自己と万物との間に境がなくなったということなのです。

認識する側と認識される側との境目が消えるのです。

老師は無字を手放して自己と万物と一体となる、風の音を聞くのではなく、風と一体となるとお話くださいました。

私達は言葉を覚えて、言葉という便利な道具を使って、それに馴れてしまっていますが、老師は、言葉によって私たちは、自分と対象の分離ができるのだと指摘されました。

言葉を介さないと、本当のものごとがうつるのだというのです。

更に『無門関』にある「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し」という言葉を提唱されました。

聞くと物騒な言葉に思われます。

老師は、たとえ仏祖に出逢ってもその存在を認めることができない、仏祖と自分との区別がないのだと説いてくださっていました。

その通りなので、仏祖をたたき切ったと得意になるのではなく、大事なのは、この区別する心、分別がなくなることです。

老師は分別心がないから、生と死との区別もないのだと仰せになりました。

六道四生の中で遊戯三昧と無門禅師は説かれましたが、老師は輪廻の真っただ中で、どんな境遇でも自由に楽しんでゆくのだと仰せになりました。

この分別しない、好き嫌いをいれないのが智慧なのです。

そんなお話をなさって百丈野狐の話へと進みました。

百丈和尚のところでいつも皆とお説法を聞く老人がいました。

誰かと聞くと、人間ではなく、遠い遠い昔この寺の住職をしていて、修行僧から、一所懸命に修行した人も因果に落ちるのか、因果を超出することができるのではないかと問われ、因果に落ちないと答えたために、五百生もキツネとして過ごす羽目になったというのです。

どうかキツネを脱する為に一語をお示しくださいと百丈和尚にお願いしました。

一所懸命に修行した人でも因果に落ちるのかと問われて、百丈和尚は、因果をくらまさずとお答えになったのでした。

これでその老人はおかげでキツネの身を脱することができましたので、一僧侶として弔ってほしいとお願いしたという話です。

因果はくらますことはできないのです。

老師は因果を、大根を育てることに喩えて教えてくださいました。

大根の種という原因があって、土や水や肥料や日の光などの縁があって、そして大根という結果ができるのです。

私たちも毎日自分の心にどんな種をまくかによって結果が変わるのです。

怒りの種をまき続けていると、怒りっぽいひとになります。

慈しみの種をまき続けると、慈悲の人になります。

因果は否定できないのです。

そこで老師は『大智度論』にある言葉を紹介されました。

「一切世間の法は但因果のみにして人無し」という言葉です。

この世間はすべて因果の法則のみでできていて、私はいないというのです。

今の自分は過去にまいた種が現れているだけです。

仏様の眼からみると、私なんてどこにもないというのです。

この言葉に触れて老師は、仏教のすごさ、恐ろしさを痛感したと仰っていました。

自分にこだわっていると、苦しみが増すばかりですが、因果のみだとみれば、世界が明るくなったというのです。

目にするもの耳にするもの因果がありありと現前しているのみなのです。

飯田儻隠老師の「天下は因果の博覧会じゃ」というお言葉は実に痛快でした。

因果のみというと、何か因果に縛られている感じを受ける方もいらっしゃるかもしれませんが、日が昇り、雨が降り風が吹き、大きな自然のめぐりもまた因果そのものです。

この因果のめぐりの総体を仏と言ったりするのだと私は受けとめています。

大いなる大生命でもあるのです。

私たちは、この因果にあえて私を持ち込んでしまうのです。

よけいな物語をつけては納得しようとしたりします。

しかしそれは因果をごまかすことなのです。

因果をくらまさず、ありのままに受け入れるのです。

ここで政道老師は、この百丈野狐の話も、最後にこのキツネがキツネの身を脱して僧侶として葬ってほしいというのも、とらわれではないかと仰せになっていました。

なるほどなと老師のご講義に聞き惚れながら、ノートに老師の言葉を書いていて、もうそろそろ終わりそうだという頃に、なんと私のボールペンのインクが切れてしまいました。

せっかく終わりの言葉を書き留めようと思っていたのに、インクが切れてはどうしようもありません。

そんな時に限って鞄は総長室に置いてきていましたので、その一本しか手元にないのです。

しまった!、たいへんだ!と、終わりの言葉をかけないとは残念だと思ったところで、そうだ!世界は因果のみなのだと思い直しました。

ボールペンには一定量のインクが入っていて、そのインクの分だけ使ったのでインクがなくなったという、原因と結果があるのみで私の都合はないのです。

その事実のみだと思うと、いっぺんにあせりも苦しみも消えました。

ただ因果のみ、それだけなのです。

それでもひたすら空のインクでノートをとっていました。

当然終わりの数ページは白紙であります。

インクがないので白紙のみです。

最後は何の言葉も消えてしまったので、言葉による分別も消えていたのでした。

これもまた風流だと思ったのでした。

因果はごまかさずに受け入れるのみ、有り難いご講義でした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?