第1433回「ブッダの悟り」

お釈迦様は難行苦行を六年なされました。

二十九歳で出家して三十五歳で悟りを開かれるまでであります。

断食の修行をしたりされました。

中村元先生の『ゴータマ・ブッダ上』(春秋社)には、次のように書かれています。

「わたくしはある恐ろしい森林にひそんでいた。その恐ろしい森林の恐ろしさについては、「なんぴとでもまだ貪欲を離れないでかの森林に入ったならば、おおよそ身の毛がよだつ」といわれていた。

わたくしは、寒冷にして降雪時期の、月の前分第八日から後分第八日にいたるまでの冬の夜には、夜は露天に、昼は森林に住していた。

また夏の最後の月には、昼は露天に夜は森林に住していた。

そこでいまだ聞かれたことのない、驚嘆するまでもないこの詩がわたくしに現われた。

暑き日も寒き夜も
ただ独り恐ろしき森に
裸形にして火もなく坐す。
聖者は探求をはたさん、と。

わたくしは墓場において死屍の骸骨を敷いて寝床とした。

そのとき牧童たちがやってきて、わたくしに唾し、放尿し、塵芥をまきちらし、両耳の穴に木片を挿し入れた。

しかしわたくしはかれらに対して悪心をおこさなかったことをおぼえている。わたくしの〈心の平静〉に住する行にはこのようなことがあった。』」

というのであります。

王子様であった頃の暮らしとは全く異なります。

子供達につばを吐きかけられても、平然と修行していたのでした。

その後お釈迦様は、「そのとき、わたくしはこう思った、およそ過去に道の人(サマナ)あるいはバラモンで、急激猛烈な苦痛の感覚を受ける人々があるとしても、わたくしが受けたようなものは最高で、これ以上のものはないであろう。

およそ未来に道の人あるいはバラモンで、急激猛烈な苦痛の感覚を受けるであろう人々があるとしても、わたくしが受けたようなものは最高で、これ以上のものはないであろう。

およそ現在に道の人あるいはバラモンで、 急激猛烈な苦痛の感覚を受ける人々があるとしても、わたくしが受けたようなものは最高で、これ以上のものはないであろう。

だがわたくしはこの激しい苦行をもってして なお、人間を超えた、全き妙なるすぐれた智見に達することができない。

おそらくは、さとりにいたるには他の道があるのであろう、と」

と苦行をやめられるのでした。

お釈迦様はスジャーターという女性から牛乳のおかゆをいただき、体力を回復して、さらにソッティアという草刈りの人から、草を受け取って坐禅をなされたのでした。

それが今のブッダガヤの金剛座のところであります。

何を悟られたのか、伝統的には十二因縁を説かれることが多いのです。

中村先生の『ゴータマ・ブッダ』には、

「あるとき世尊は、

ウルヴェーラー村、ネーランジャラー河の岸辺に、菩提樹のもとにおられた。はじめてさとりを開いておられたのである。

そのとき世尊は菩提樹のもとにおいて、七日のあいだずっと足を組んだままで、解脱の楽しみを享けつつ、坐しておられた。

ときに世尊は、

その七日が過ぎてのちにその瞑想から出て、その夜の最初の部分において縁起〔の理法]を順の順序に従ってよく考えられた。

「これがあるときにこれがある。これが生起するからこれが生起する。

すなわち、無明によって生活作用があり、生活作用によって識別作用があり、識別作用によって名称と形態とがあり、名称と形態とによって六つの感受機能があり、

六つの感受機能によって対象との接触があり、対象との接触によって感受作用があり、感受作用によって妄執があり、妄執によって執着があり、執着によって生存があり、

生存によって出生があり、出生によって老いと死、憂い悲しみ・苦しみ・愁い・悩みが生ずる。

このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて生起する。」

と説かれています。

更に

「「これが無いときにこれが無い。これが消滅するからこれが消滅する。

無明を止滅するならば、

生活作用が止滅する。

生活作用が止滅するならば、識別作用が止滅する。

識別作用が止滅するならば、名称と形態とが止滅する。 名称と形態とが止滅するならば、六つの感受機能が止滅する。六つの感受機能が止滅するならば、対象との接触も止滅する。

対象との接触が止滅するならば、感受作用も止滅する。 感受作用が止滅するならば、妄執も止滅する。妄執が止滅するならば、執着も止滅する。

執着が止滅するならば、生存も止滅する。生存が止滅するならば、出生も止滅する。 出生が止滅するならば、老いと死、憂い悲しみ・苦しみ・愁い悩みも止滅する。

このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて止滅する」と。」

と縁起の理法をよく考えられたと解説されています。

十二縁起を観察されたということは、いかにして迷いを引き起こしてしまうのかを明らかにされたのだと思います。

お釈迦様の悟りについては、玉城康四郎先生は、『悟りと解脱―宗教と科学の真理について― 』(法蔵館文庫)の中で、次のように説かれています。

「「実にダンマ(法)が、熱心に入定しつつある修行者に顕わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して安立している。

あたかも太陽が虚空を照らすがごとくである」

悟りの爆発をブッダは「ダンマが顕わになる」と述べたのである。

これが解脱の原点であり、その形なきいのちが、ブッダの全人格体に顕わになったのである。」

と説かれています。

「ダンマがブッダの人格体に顕わになり、浸透し、通徹して、全宇宙を照らし抜いた」というのです。

まさにこの表現が私にはもっとも親しみを感じるのであります。

この「形なきいのち」が後に仏心や仏性と名付けられるようになったと受け止めています。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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