第1498回「右へ寄ったり、左へ傾いたり」2025/2/12
「中道とはどういうことでしょうか」と。
中道というのは、まず『広辞苑』には、
「①行程のなかほど。半途。中途。」という意味があり、
「中道にして倒れる」という用例があります。
次に「②極端に走らない中正の立場。」として
「中道を行く」という用例が示されています。
それから仏教語として「③二つの極端(二辺)すなわち有・無、断・常などの対立した世界観を超越した正しい宗教的立場。
また、快楽主義と苦行主義の両極端を離れること。」
という解説があります。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「相互に矛盾対立する二つの極端な立場(二辺)のどれからも離れた自由な立場、<中>の実践のこと。
<中>は二つのものの中間ではなく、二つのものから離れ、矛盾対立を超えることを意味し、<道>は実践・方法を指す。
仏陀は苦行主義と快楽主義のいずれにも片寄らない<不苦不楽の中道>を特徴とする八正道によって悟りに到達したとされる。
仏陀はまた、縁起の道理にしたがう諸法は、生じるのであるから無ということはなく、また滅するのであるから有ということはないという意味で、<非有非無の中道>であると説く。」
と解説されています。
はじめは、お釈迦様は王子様でいらっしゃいましたので、快楽が充たされる暮らしをなさっていました。
そこからすべてを捨てて激しい苦行に身をやつされました。
これ以上の苦行をした者はいないであろうというほどだったのでした。
しかし、ことさらに身を痛める苦行では悟りには至れないとして、苦行を捨てて菩提樹のもとで坐禅をされたのでした。
そうかといって、快楽にふけるのでは道を達成することはできません。
苦行主義と快楽主義の両極端を離れるというのが中道であります。
人間というのは、どこか極端に走りたがる傾向を持っているように感じます。
人は死んでも魂が残って永遠に生き続けると考えたいという立場もあります。
逆に、死んだらなにもないという立場もあります。
仏教はその二つの極端を離れます。
『仏教辞典』にも「仏教の説く輪廻転生は迷いの世界を比喩的に提示したもので、霊魂不滅説を唱道したわけではない。」と、不滅説でもないと説かれています。
しかし、死んでなにもないのかというと、そうでもなく、『仏教辞典』には、
「民間へ受容されるにつれ、六道絵や地獄変相図が絵解きによって導入され、それが日本人の他界観に大きな影響を与えた。
しかし、日本人本来の考え方として、死後の世界は現世と連続するところに存在し、死者は盆・彼岸・命日には容易に両界を往来し、子孫に相まみえることが出来ると考えていた」と説かれているように、死んでも通じ会う世界が説かれているのであります。
この二つに偏らないところを、昔の方は「あるようでない、ないようである」と表現されています。
実に曖昧でわかりにくいかもしれません。
私もこの表現には初め抵抗を覚えたものです。
しかし、今では実によく言い表していると感じています。
さて、この中道について質問された老師は、このような難しい理屈を述べることはなく、さらりと
「右へ寄ったり、左へ傾いたりすることじゃ」とお答えになったのでした。
これも学生の頃に聞いた話で、深く感銘を受けて覚えているのです。
こんなもう四十年も前の話を先日思い出したのでした。
とある方の話を聞いていて、二足歩行をするロボットのことを教わっていました。
二足歩行をするというのは、実はとても難しいのです。
二本足で立つだけでも難しいのです。
まずバランスが悪いものです。
人間のようなものをまず直立させようとすると、よほど足に重いものをつけるか、或いは、足の下に地面に深く棒でもさしていないと立つことは困難です。
立つことだけでも難しく、歩くこともまた難しいのです。
何気なく歩いていますが、実は精明にバランスをとっているのです。
その人間の二足歩行をロボットでやってみようとして、ずいぶんと苦労したのだという話でした。
だいたいバランスが悪いので、すぐにどちらかに倒れようとしてしまいます。
そこでどうしたら倒れないようにバランスをとれるかを研究していたそうなのです。
しかし、これがなかなか出来ないのでした。
そこでうかがった話では発想を転換したのだというのです。
倒れないようにするのではなく、倒れるようにと考えたのでした。
もう倒れるものだと考えて、右に倒れる前に、左に倒れようとし、左に倒れる前に右に倒れようとする、倒れよう、倒れようという連続が、右に左にと倒れる前に足が出て二足歩行になっているのだという話でした。
聞いた話ですので、どこまで理解が正しいか分かりませんが、私はそのように受けとめてなるほどなと思ったのでした。
倒れないようにするのではなく、右へ左へ倒れる連続なのだという話に感銘を受けたのです。
転びつつ転びつつ、ただ転ぶ直前で足を出し、また転ぶ直前で足を前に出しているのであって転ぶ連続なのだというのです。
人間は転びつつ歩いていると思うと何か楽しいものであります。
禅の教えにも通じるところがあるのです。
禅でははじめに馬祖禅師という方が、このありのままがそのまま仏であると説かれました。
即心是仏という教えであります。
臨済禅師もその教えを継承しています。
ですから、ことさらに静かなところを選んで心を調えて坐禅しようとすることなどは余計なことだ、そのままが仏であると信じろと説かれたのでした。
しかし、ありのままでは、なにもせずに怠けてしまう者も出てきます。
ありのままに偏ってしまうのです。
そこでありのままではダメだ、しっかり修行して悟りを目指すのだという教えが出てきます。
この二つがいつもあったのでした。
心は鏡のようなもので、絶えず塵やほこりがつかないように努力すべきだという立場と、鏡などもないし、塵やほこりもつきようがないのだという立場と、この二つがいつも拮抗しているのです。
釈宗演老師もそこで、『禅海一瀾講話』で
「矢張りこの二派は相い争って居る。相争って居る間に真理は益々磨かれると思う。」
と説かれています。
このところを小川隆先生は「悟りとは永遠の運動である」と説かれています。
江戸時代に盤珪禅師がお出になって、不生の仏心のままで暮らしなさいと親切に説いてくださいました。
しかし、そのありのままに偏ってしまい、怠惰になりがちな修行僧を見て白隠禅師は痛烈に批判をされて、勇猛精進努力を説かれたのでした。
しかしながら、あまり勇猛精進に偏りすぎても倒れてしまうのではないかと懸念します。
倒れる前に、盤珪禅師の教えを学び直し、またありのままに偏りそうになると、勇猛に精進しようとして、進んで行くのが中道かと、感じるのであります。
横田南嶺