第1347回「泥に和して」

世田谷区野沢の龍雲寺様で開催された三回目の三者三様法話会、細川晋輔さんの法話に続いて、二番目に登壇されたのは小池陽人さんでした。

小池さんが現れるだけで、その場が明るくなると感じるのは不思議であります。

臨済宗方広寺派の管長であった大井際断老師が、お坊さんは声、顔、姿だと仰っていましたが、まさに小池さんのお声はよく通り、明るい笑顔で、姿勢もよろしいし三拍子みごとにそろっています。

その上でお話の内容も素晴らしいのであります。

それだけでも十二分の小池さんですが、今回はなんと、糞掃衣プロジェクトで作られた御袈裟をまとっての登壇であります。

今回三者三様の法話会でももっとも中心となるものでありました。

小池さんには信者さんも多いので、小池さんにお目にかかりたいと思って駆けつけた方も多くいらっしゃいます。

明るい笑顔で、よく通る澄んだお声で、糞掃衣プロジェクトにまつわるお話をしてくださいました。

今回のテーマは「今、ここ」ということでしたので、はじめに小池さんは、人はどうして今ここに生きられないのか、意識が今ここにないというのはどういう状態なのかを具体的なたとえを用いてお話くださいました。

それはお子さんの予防接収の話なのであります。

小池さんのお子さんが日本脳炎の予防接種をなされた話でした。

注射をしている時間というのは、ほんのわずかなのですが、子供というのは、今日注射に行くと言われると、その時から泣いてしまいます。

注射を打たれて痛いと感じるのは一瞬なのですが、その前からいやだいやだと泣いてしまうのです。

そこで小池さんのお子さんは、どうしたら痛くなくなるか、あれこれ調べて甘いものを口に入れていると痛みが紛れると知ったのでした。

グミというお菓子を口に含んで注射に臨んだそうなのですが、注射の前に口開けて喉を診てもらうことになって、お医者さんにグミが口の中にあるのが見つかってしまい、あわてて飲み込んだという話でした。

しかし、そのあとお子さんはもうあきらめて心を無にして注射に臨んだらしいのですが、なんとその様子を見ていた長女が泣き出したそうです。

それは二年後に自分が打たれるのを思って泣いたというのです。

こんな話を笑いながらなされて、子供が今ここに生きていなく、未来のことで悩んでいるのだと話してくださいました。

この話をみなさんと一緒に私も笑いながら聞いていました。

その通りだと思いながら、考えてみると、大人も同じことをしているなと思うと、笑うに笑えなくなってしまいました。

注射の代わりに「死」ということを考えてみるとどうでしょうか。

おそらく死というは一瞬のうちに息を引き取るのでしょう。

しかし、そのまだ来ない死、しかもいつ来るか分からない死について、死を恐れ、あれこれ考えて思い煩っているのです。

注射の時に注射だけ無心に打たれればおしまいだというように、死の時が来たら死ぬだけと、諦めることは実際には容易ではないのです。

子供ことだと笑えないなと思いました。

そこから小池さんは「今ここ」の対極にある言葉として、「いつか」という言葉をあげられました。

そして糞掃衣プロジェクトの話につなげてゆかれました。

聖徳太子がまとったとされる日本最古の袈裟が東京国立博物館にあります。

その袈裟を令和の時代に復元しようというのが、糞掃衣プロジェクトであります。

もともとは、般若寺(山口県)の住職だった福嶋弘昭さんが計画していたものでした。

この福嶋さんと小池さんはご縁が深かったそうなのです。

同じ真言宗ということもあって小池さんのことをよく目に掛けてくれていたそうです。

小池さんがYouTubeを始めた頃にも批判もあったらしいのですが、福嶋さんが「気にするな」と応援してくださったのでした。

この福嶋さんのお寺というのは山寺で、しかも檀家も少ないそうなのですが、そんなお寺を一所懸命に各地で講演などをなさって建て直されたそうなのです。

小池さんに福嶋さんが寺作りについて伝えたいから一度般若寺に来るようにと仰っていました。

ところが小池さんもお忙しく、「いつか行きます」と答えていたのでした。

それが、昨年の一月なんと福嶋さんが五十歳で急逝なされてしまったのでした。

一月の末、寒波で大雪の予報のなか、どうにか弔問されたということでした。

時間をやりくりして弔問に行ってみると、どうにか日帰りができたというのです。

なぜ福嶋さんの生前に行かなかったのかと後悔なされたのでした。

そこで小池さんは「人生にいつかはない」と心に決めて、「いつか」という言葉を使わないようにしているというのです。

そうして福嶋さんが計画していた糞掃衣プロジェクトを小池さんが中心となって進められたのでした。

奈良国立博物館主任研究員の三田覚之先生の監修のもとに行われたのでした。

糞掃衣とは、本来は捨てられるようなボロの布の端切れを洗い、重ね合わせて縫ったものです。

普通は四角い布を縫い合わせるのですが、この糞掃衣はいろんな形の布が縫い合わされた独自のものです。

それぞれ染色された布で、なんとも言えぬ風合いのある御袈裟でした。

小池さんは千人の方に縫ってもらおうと発願されて、多くの方が縫ってきたのでした。

私も昨年の九月に須磨寺で三者三様の法話会が行われた時に細川さんと一緒に縫わせてもらいました。

また今年の五月にも最後に少し縫わせてもらったのでした。

そうして今年の五月に無事完成したのです。

できあがって最後に須磨寺の霊泉で清めようということになって、須磨の霊泉に行ったそうです。

御袈裟を清めようとしていくと、そのまえにご婦人がぞうきんをすすいでいたというのです。

せっかく袈裟を清めようというのに、その前にぞうきんをすすがれるとはと思ったのですが、三田先生はそのご婦人は観音さまだと言われました。

御袈裟の精神を忘れてはいけないということなのです。

みんなでこの糞掃衣プロジェクトで御袈裟を縫っていると、御袈裟が特別に尊いもののように思ってしまいます。

本来はぼろを縫い合わせたものだということを忘れないようにと、ぞうきんをすすぐご婦人が現れてくれたのだと小池さんは仰っていました。

ぞうきんの汁をすってこそ、本当の糞掃衣になるのだとお話くださったのでした。

和泥合水ということばがあります。

泥まみれになり水に濡れながらも、溺れている人を助けるという意味です。

糞掃衣をまとってお話くださる小池さんはまさに和泥合水のお姿でありました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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