第1391回「十牛図を語る」

先日は鎌倉シャツの皆さんに、十牛図の話をしていました。

鎌倉シャツの方とは、最近作務衣を通じてお世話になっています。

メーカーズシャツ鎌倉は昨年の11月に創業三十周年を迎えたお店です。

副社長の貞末哲兵さんが、よく円覚寺の日曜説教にお越しになっていて、ご縁ができました。

鎌倉シャツさんが作務衣を作っているというので、いろいろとお世話になるようになったのです。

そんなご縁から円覚寺で坐禅と法話の会も行ったのでした。

昨年は、私が作った『パンダはどこにいる?』の絵本をもとに話をしました。

今回は、十牛図について話をしたのでした。

作務衣というのは、今日お寺の和尚さんの作業着として定着していますが、そんなに昔からあるものではありませんでした。

戦後になってから作られるようになったものです。

ですから、私が師事してきた老師方は、作務衣は伝統のある衣装ではないという意識をお持ちでした。

ですから正式の場においては、作務衣は着てはいけないと言われていたものでした。

もともとは着物にたすきをかけて、掃除や作業をしていたのでした。

それからモンペのような作業着ができるようになって、今日のお寺の作務衣が出来てきたのです。

今ではお寺のみならず、いろんな方も着るようになっています。

岩波書店の『仏教辞典』には「作務」についても書かれています。

「『祖堂集』5に「仏地の西に至りて作務の所有り」とあり、農耕作業や掃除などの肉体労働をさす。

もともとの戒律によれば、比丘が労働に従事することは禁じられていたが、禅門では自給自足を原則とし、上下が力をあわせて共同作業をすることを修行として重要視する。

<普請>に同じ。

なお<作務衣>は、作務のときに身につける衣服の称。」

と解説されています。

丁寧に作務衣の解説までなされています。

『仏教辞典』の解説にある通り、もともとお釈迦様の教えでは、労働をすることは禁じられていたのでした。

お坊さんは、町で托鉢して食べ物を施してもらって、それをいただいて、もっぱら瞑想修行に励んでいたのでした。

仏教が中国に伝わってから、おそらく托鉢だけで暮らしてゆくことが困難になって、労働せざるを得なくなったのだろうと推察します。

そこで自給自足の暮らしをせざるを得なくなったのですが、その労働に積極的意味を見いだして作務をするようになっていったのです。

今でも作務をすることを尊んでいます。

私などは、修行をはじめた頃からすでに作務衣はありましたので、違和感なく作務衣を使わせてもらっています。

昨年の十二月に初めて円覚寺で、鎌倉シャツのみなさんの坐禅の会が行われて、今回二度目となりました。

十牛図についても『仏教辞典』に解説があります。

引用します。

「宋代には<牧牛図>の制作が流行した。

これは牛を題材とした絵と解説、偈(げ)文によって禅修行の過程を表現したものであるが、そのうち特に10章から成るものを<十牛図>と呼んでいる。

数種が存在したようであるが、古く日本で流布したのは廓庵師遠(かくあんしおん)のもの(12世紀)で、「本来の自己」を牛になぞらえ、禅修行を逃げ出した牛を連れ戻す過程として表現している。

各章の内容を掲げれば、次のごとくである。

<尋牛(じんぎゅう)>自己喪失の自覚。不安に襲われた段階。

<見跡(けんせき)>経典・祖録によって本来の自己への糸口をつかんだ段階。

<見牛>修行によって本来の自己に目覚めた段階。

<得牛>修行の進展で、本来の自己をつかんだ段階。

<牧牛>つかんだ自己を自分のものとする段階。

<騎牛帰家(きぎゅうきか)>本来の自己を自分のものにした段階。

<忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)>自己と完全に一体化し、意識にすら上らなくなった段階。

<人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)>主体すら無くなった絶対無の段階。

<返本還源(へんぽんげんげん)>現実世界への回帰が起こる段階。

<入廛垂手(にってんすいしゅ)>自然に人々の教導へと赴く段階。」

と丁寧に書いてくれています。

更に「本書は内容が平易な上に禅修行の全体を俯瞰できるため、『禅宗四部録』や『五味禅』に収められてしばしば開版を見た。」

と書かれています。

そんな十牛図について一時間ほどで話をして、質疑応答を受けました。

中には、なぜ牛の絵なのですかという問いがありました。

そんなことについてあまり考えたことはありません。

十牛図として馴染んできましたので、疑問に思うこともありませんでした。

ですから改めてなぜ牛なのかと問われると困りました。

牛は、当時の中国ではもっとも身近にあった動物だと思います。

貴重な労働力でもあったことでしょう。

唐代の禅僧南泉普願禅師が、いよいよお亡くなりになる時、

修行僧が、和尚は亡くなってどこに行かれますかと問いました。

すると南泉禅師は、山の麓で一頭の水牛になって生まれてくると答えました。

僧が、私もお伴してよろしいでしょうかと聞くと、

私についてくるのなら、自分の食べる草をくわえて来いと答えています。
 
同じ時代に活躍された潙山禅師というお方もまた、死んだ後には、麓の檀家の家に一頭の水牛となって生まれ変わって来よと言っています。

またお釈迦様の国インドでも牛はだいじな動物でした。

今年の二月にインドにお参りした折にも町に牛がたくさんいるのを眼にしました。

お釈迦様のことをゴータマとよくお呼びしますが、これは最上の牛という意味の言葉です。

またお釈迦様がお亡くなりになるときに説いたと言われる『遺教経』には、

「汝等比丘、已に能く戒に住す。当に五根を制すべし。放逸にして五欲に入らしむること勿れ。譬えば牧牛の人の、杖を執って之を視せしめて、縦逸にして人の苗稼を犯さしめざるが如し。若し五根を縦にせば、唯五欲の将に崖畔無うして制すべからざるのみにあらず。」

という一文があります。

お釈迦様はお亡くなりになるにあたって弟子達に自分の滅後には、戒をよりどころとするように言い残されました。

そこで更に戒をたもったら、眼耳鼻舌身の五根を制御すべきたというのです。

五根を欲望のままにしてはいけないと説かれました。

それはたとえば、牛を飼う人が、牛がよその畑の作物を荒らさないように杖をもって牛に見せて、牛を制御しないといけないというのです。

心を牛に喩えて、常に制御しないといけないと説かれていますが、こんなところが十牛図のもとになっているようにも思います。

よく心を調えて自らなすべき勤めを精一杯にはたらいてゆくのが禅の道であります。

特に十牛図は、最後は利他行で終わっていますので、人の爲に精一杯骨身を惜しまずにはたらくことだとお話したのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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