第1475回「栗山さんの禅修行 其の一」2025/1/20
栗山さんというのは、WBC日本代表元監督の栗山英樹さんです。
今は日本ハムファイターズのチーフ・ベースボール・オフィサー(CBO)という役職についていらっしゃいます。
二〇二三年にワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で優勝を成し遂げた、文字通り世界一の監督であります。
そんな栗山さんに、円覚寺の修行道場でご飯を炊いてもらいました。
なぜそんな不思議なことが起こったかをお話します。
WBCで世界一になった後に、致知出版社の依頼で、栗山さんと対談したのが、そもそものご縁の始まりでした。
昨年は、円覚寺の夏期講座でも講演いただき、花園大学でも対談し、更に致知出版社の対談も行いました。
対談を重ねて、単行本にもなるのであります。
そのように何度も栗山さんとお話していると、栗山さんが禅の修行にとても興味をもっておられると感じました。
そこで、何気なしに、ご関心がおありでしたら、一度修行道場の生活を体験されては如何でしょうかと、提案してみたのでした。
お忙しい栗山さんのことですから、そんな時間はないだろうと思っていたのですが、なんと先日栗山さんが円覚寺の修行道場で、一日修行の生活を体験されたのでした。
その日の午前中に栗山さんはお見えになりました。
なんと電車で見えるというので、駅までお迎えにでました。
「今日は修行に行くのだから、車ではなく電車で行く」という気持ちに、私はまず心打たれました。
控え室でお茶を差し上げ、作務衣に着替えてもらいました。
そしてそろそろお昼前になりますので、ご飯を炊くという経験をしてもらいました。
修行道場では今も竈で薪を燃やしてご飯を炊いています。
竈に薪をくべて火をおこすところから、修行僧と一緒になって体験してもらったのでした。
私たちの禅の修行では、食事を大切にしています。
今の若い人たちにいくら食べる物に感謝をしてと、口で説明しても実感するのは難しいものです。
しかし、実際に井戸水をくんでお米をといで、竈にかけて、火をおこしてご飯を炊くと、いかに、ご飯を炊くことがたいへんかを身にしみて学びます。
ご飯とお味噌汁だけの食事ですが、お味噌汁のお野菜を畑でとって、井戸で洗って刻んで鍋にいれて釜にかけるというのも重労働です。
半日がかりで必死になって作るものです。
そうしてはじめていただく食事にこころから手が合わさるようになります。
それを修行僧と一緒に体験してもらいました。
そうして白いご飯が炊き上がった時には感動するものです。
それからあらかじめ持鉢という、自分で使う五つ重ねの食器を差し上げていましたので、それを使って皆と一緒に食事をしてもらいました。
修行道場では自分の食器は、自分で持っています。
食器を洗うという作業がないのです。
食事の終わりに一切れの沢庵で、食器をきれいにしておいて、いただいたお湯で食器を自分の指で洗い、最後にそのお湯も飲み干して自分の布巾で拭いて、包みにくるんで終わるのです。
食事にはいろんな作法がありますが、おおまかなところをお教えして、あとは一緒にいただいたのでした。
午前中はそんなことで終わったのでした。
私が栗山さんに控え室で申し上げたのは、禅を学ぶには、書物を読んだり話を聞くのも大事ですが、禅は暮らしであることでした。
生活が禅なのです。
禅の生活に触れて体験してもらうのが一番なのですと伝えました。
薪を使ってご飯を作って、黙って感謝していただくのです。
宗派によっては、食事は食事で、食事の専門の方に作ってもらって、修行は別だと考えるところもあるようですが、禅は生きる暮らしそのものが修行であり、仏の営みなのです。
栗山さんは実に謙虚にひとつひとつ修行僧に聞きながら、二十名ほどの修行僧たちのご飯を炊いてくださいました。
ご飯とお味噌汁の簡単な食事ですが、作ることにもいただくことにも、栗山さんはとても感動されていました。
食事の大切さを見直したとおっしゃっていました。
やはり食事は生きる上での一番の基本であります。
禅の修行はやはり食事からなのです。
食事を作るのも大事な修行であります。
食事をいただくのも大事な修行なのです。
黙って食事をするというのは一般の方には違和感を覚えるでしょうが、この食事にしっかりと向き合っていただくのです。
食事五観文というお経を唱えます。
およその意味はというと、
一つには、この食事が食膳に運ばれるまでに幾多の人々の労力と神仏の加護によることを思って感謝していただきます。
二つには、私どもの徳行の足らざるにこの食物をいただくことを過分に思います。
三つには、この食物に向かって貪る心、厭う心を起こしません。
四つには、この食物は天地の生命を宿す良薬と心得ていただきます。
五つには、この食物は道行を成ぜんが為にいただくことを誓います。
という意味であります。
禅は生活であるということと、それからもうひとつ栗山さんに伝えたのは、禅の世界では修行僧が宝であることです。
実際に今も毎朝暗いうちに起きてお粥をいただいて素足で掃除をして畑を耕し薪を割って坐禅の暮らしをしている修行僧がもっとも尊く、宝なのですと伝えました。
大学出たての者から、ある程度の社会生活を終えて修行に来ている者、いろいろあります。
それぞれいろんなことを考え悩みながら修行をしています。
その修行している姿こそが尊いものなのです。
そんな若い修行僧たちに接してもらいたいと願ったのでした。
もっとも修行僧たちは、あの栗山さんが来るというので、大喜びでありました。
また午後の修行について明日紹介しましょう。
横田南嶺