第1340回「禅文化夏季講座」

九月一日、禅文化研究所の夏季講座を開催しました。

都内の仏教伝道協会を会場にしました。

禅文化研究所としては初の試みであります。

研究所は、京都の花園大学の中にあるので、いろんな講座は皆京都で行われています。

そこで一度都内でやってみようと思い立ったのでありました。

昨年から計画を立てて、会場をどこにするか、講師をどうするか、などなどいろいろ検討を重ねてきました。

会場は、仏教伝道協会を使わせていただきました。

これがとてもよく整った素晴らしい環境でありました。

田町の駅からもすぐなのであります。

講師は、いつもお世話になっている駒澤大学の小川隆先生にお願いしました。

もう一人どうするか検討したのですが、第一回でもあるので、所長がやるようにということになったのでした。

申し込みも満席になって、満を持してあとは開催を待つのみとなったのですが、思いもかけないことが起こるものです。

台風十号であります。

一時は、九月一日の頃は直撃かと思われたこともありました。

関東直撃となれば開催は不可能であります。

しかし、だんだんと情報が変わってきました。

最終決断を二十九日にしないといけなくなりました。

休会にするにしても、多くの方に連絡して返金の手続きをしないといけません。

研究所としてみればできれば開催したいところです。

まして第一回から開催できないとなると、困りものです。

理事長とも相談して、二十九日の時点で、台風の予想進路は、更に変わって、一日はまだ近畿地方にとどまっていて、低気圧に変わるかもしれないということでありました。

懸念されたのが交通事情であります。

東海道新幹線は、二十九日から運行が難しくなっていました。

都内の雨も強いようであります。

関東でも災害が予想される状況でありました。

しかし、一日の午後の開催ですので、だいじょうぶだろうと判断をして開催したのでした。

どうなるのかと案じて当日を迎えました。

幸いにも傘をさすことなく会場に入れることができました。

講座中は雨が降っていたようですが、また帰りにも雨があがっていましたのでたすかりました。

夏季講座は、午後一時から午後五時までと長いものです。

はじめに小川先生の九十分の講義があって、そのあと私がイス坐禅を三十分ほど行いました。

そして休憩をはさんで、私が九十分話をして終わったのでした。

結果的には無事終えることができました。

しかし、終始ハラハラしながら開催したのでありました。

京都の禅文化研究所からは、スタッフとして一名だけ来てもらいました。

東海道新幹線が止まっていますので、北陸新幹線で来てくれました。

あとは、臨済会や東京禅センターの方がお手伝いしてくださいました。

有り難いことでありました。

研究所の理事長である松竹寛山老師が、臨済会の会長もなさっているからでもあります。

松竹老師のご人徳のおかげといってよろしいでしょう。

京都の八幡市から円福寺の老師が駆けつけてくださいました。

老師は前日飛行機でお越しくださいました。

夏季講座の午前中には、老師を築地本願寺や増上寺などにご案内させてもらいました。

有り難いことにその午前中も傘をさすことがありませんでした。

早めのお昼をいただいて会場に入ったのでした。

会場に着くと、なんど宇和島の大乗寺の老師も駆けつけてくださいました。

四国から飛行機も欠航が続いていたのですが、どうにか飛ぶようになったというのでした。

ふだんお世話になっている老師方もお見えくださると、こちらも感激します。

禅文化研究所からは事務局長が来られなかったので、理事長である松竹老師が挨拶も司会もしてくださいました。

はじめに小川先生の九十分の講義でした。

今回の夏季講座のテーマは、「今『臨済録』をどう読む」ということにしていました。

そこで小川先生の講義のタイトルは「無位の真人」って誰のこと?―唐代の禅と『臨済録』ということでありました。

「仏性、法性」と呼ばれる仏としての本来の自己と、この現実の自己との関係をどうみるのかというところから唐代の禅の特徴について話が始まりました。

唐代を代表する禅者の馬祖禅師の教えを示してくださいました。

要約しますと「自己の心が仏なのであるから、自身の営為はすべてそのまま仏作仏行にほかならず、したがって、ことさら聖なる価値を求める修行などはやめて、ただ「平常」「無事」でいるのがよい、と。要するに、あるがままの自己の、あるがままの是認、それが馬祖禅の基本精神であった。」(『続・語録のことば―《碧巌録》と宋代の禅』(禅文化研究所、2010年)となります。

この馬祖禅師の教えがもとになって臨済禅師の教えにつながってゆくのです。

馬祖禅師は「自らの心是れ仏、此の心即ち是れ仏心なり」と説かれ、黄檗禅師は「祖師西来して、一切人の全体是れ仏なることを直指す」と示されたのでした。

達磨大師がインドからはるばる中国に渡って示してくださったのは、この自らの心が仏であり、自己の全体まるごと仏であることなのです。

そこから自身の営為はすべてそのまま仏作仏行であるという「作用即性」の話へと展開してゆきます。

「道流よ、山僧(わし)が見処に約さば、釈迦と別ならず。

今日、多般の用処、什麼をか欠少かん?

六道の神光、未だ曾て間歇せず。若し能く如是(かくのごと)く見得せば、祇だ是れ〝一生無事の人〟ならん。」

というのです。

岩波文庫の『臨済録』に入矢義高先生は、

「君たち、わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別ではない。

現在のこのさまざまなはたらきに何の欠けているものがあろう。

この六根から働き出る輝きは、かつてとぎれたことはないのだ。

もし、このように見て取ことができれば、これこそ一生大安楽の人である。」」

と訳されています。

そして「所以(ゆえ)に古人〔馬祖〕云く「平常心是れ道」と。

大徳、什麼に物をか覓む?

現今(ただいま)目前に聴法せる〝無依の道人〟、歴歴地(ありあり)と分明にして、未だ曾て欠少(か)けず。你ら若し祖仏と別ならざらんと欲得すれば、但だ如是(かくのごと)くに見て、疑誤するを用いざれ。」

「さればこそ古人はそこを『平常心がそのまま道である』とも言った。

諸君は一体何を求めているのか。

今〔わしの〕面前で説法を聴いている[君たち] 無依の道人は、明々白々として自立し、何も不足なところはない。

君たちが祖仏と同じでありたいと思うならば、こう見究めさえすればよい。思いまどう必要はない。」

と説かれています。

そしていよいよ「赤肉団上に一の〝無位の真人〟有り、常に汝等ら諸人の面門従(よ)り出入す。未だ証拠(あき)らめざる者は、看よ! 看よ」と説かれたのでした。

このあと僧との問答が続くのですが、さながら臨済禅師と修行僧が目の前にいるかのごとく、お話くださったのでした。

この体に無位の真人がいるといっても、現実の自己にほかに素晴らしい自分があるというのではなく、この自分自身こそが尊いものだと気がつくことが出来ました。

そして最後に小川先生は、

「你ら、祖仏を識らんと欲得(ほつ)する麼(や)?

祇(まさしく)你ら、面前に聴法する底(もの)こそ是なり。」という臨済禅師の言葉を示されました。

では無位の真人とは、誰のことと問われたなら、この話を聞いているあなた自身ですと説いて、ちょうど九十分の講義が終わったのでした。

私には、元気はつらつと、ご講義してくださる小川先生ご自身が、無位の真人がありありと現前したお姿だと拝見していました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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