第1497回「信仰と坐禅」2025/2/11

今北洪川老師の『禅海一瀾』には第二則執中という一節があります。

「人心惟れ危うく、道心惟れ微、惟れ精、惟れ一、允に其の中を執れ」という『書経』の言葉が引かれています。

これは聖王と尊ばれた堯帝が舜へ天下を譲るときに、「允に其の中を執れ」と言ったのでした。

それから舜が禹に譲るときに、「人心惟れ危うく、道心惟れ微、惟れ精、惟れ一」という言葉を加えたということです。

釈宗演老師は、『禅海一瀾講話』の中で、分かりやすく人心というのは、お互いの煩悩の心であり、道心というのは菩提、悟りの心だと説明してくださっています。

煩悩の心というのは、実に危ういものです。

人に危害を及ぼすこともあれば、自らを損なってしまうこともあります。

それに対して菩提、悟りの心は、まことに微かであって見がたいのだというのであります。

洪川老師は、この言葉について、朱熹の解釈を引いておられます。

盛永宗興老師の『禅海一瀾』にある現代語訳を引用します。

「人心と道心の区別があるのは、人心が肉体的な自己から生じ、道心は天から授かった本性の正しさに基づいているので、その知覚の働きに違いが生じてくるからである。

だから人心は危くて安定せず、道心は微かで見極め難い。

精とは道心、人心の二つを精しく洞察して混同しないことであり、一とは本来の道心の正しさを維持して、そこから離れないことである。

間断なくこれに努めて、必ず道心の方を自己の主人公とし、人心に常にその命令を聴かせるというようにすれば、危い人心も安泰となり、微かな道心も顕らかになる。

そうすれば言語動作すべて自然に過不及は無くなる(その中を執ることになる)」

というのであります。

とても明快な解釈で分かりやすいものです。

私たちが学ぶ仏教に当てはめてみても、煩悩の心に振り回されないように、菩提の心を主人公として生きるということです。

とても分かりやすいのですが、洪川老師は、この朱熹の解釈を痛烈に批判されます。

「ああ、朱熹のような天才にして、なぜこのような誤った解釈をするのであろう。」

というのです。

「ただ、大道を見極める力の足りないために、頻りに凡庸な分別によって、もともと一つである道心と人心を二つに分け、理屈によってでっち上げ、聖人の言葉を評定し、無用の言語を費やしている。」

と仰せになっています。

洪川老師にしてみれば、そもそも人心と道心とを分けて考えることがよくないというのであります。

そこで「そもそも物が入り混じらず純粋であることを精というのである。

聖語は明確にいっている。

「これ精これ一。まことにその中を執れ」と。

その真意は、人心は即ち道心、道心は即ち人心ということである。

それは二つのものではなく、区別は無い。

まじりけなく一つのものである。

いつでもどこでもこの素晴らしい境地に在る。

これを「まことにその中を執る」というのである。」

と解説されているのです。

煩悩即菩提であり、即心是仏という禅の教えを説かれているのです。

しかしながら、宗演老師の『禅海一瀾講話』を見てみると、なんと宗演老師は、

「これもしかし一概に退ける訳にはいかぬじゃろうと思う。

こういう風に心を修め、気を整えて行くことが必要で、現に我が宗門にも、「南宗」「北宗」ということがある。」

と説かれています。

そこから自己の心を鏡に見立てて、この鏡に煩悩という塵やほこりをつけないように常に努力しないといけないという「北宗」の神秀の偈を説かれています。

「先師はこう言われるが、強ち朱熹の説も非難すべきことでないと救うのである。」と宗演老師が説かれているところが実に奥深いところがあります。

煩悩を滅して悟りを得ようなどというのがそもそも迷いの根本だというのが禅の立場です。

しかし、天童如浄禅師が「祇管に(ひたすらに)坐禅するとき、五欲を離れ、五蓋を除くなり」と説かれているように、煩悩をのぞこうという努力も必要だというのです。

巌頭禅師と雪峰禅師の話を思います。

鼇山で雪に阻まれてしまって、雪峰禅師は旅籠でひたすら坐禅していました。

巌頭禅師はというとひたすら寝ていたのです。

雪峰禅師はまだ悟りが開けず悟りを求めてひらすら努力していたのです。

まさに「五欲を離れ、五蓋を除く」坐禅に励んでいました。

すでに大悟していた巌頭禅師にしてみれば、そんな迷いと悟りを分けることはない、このありのままが仏なのだと橫になってくつろいでいるのです。

禅の立場からいえば、巌頭禅師が悟っていて、雪峰禅師はこのあと巌頭禅師の啓発によって気がつくのです。

巌頭禅師は、雪の降る寒い日に、そんなにひたすら坐禅ばかりしていては、「人家の男女を魔魅する」、良家の子供をたぶらかすとたしなめたのです。

しかしながら、宗演老師が、朱熹の立場もあながち退けられないと説かれたように、雪峰禅師のような坐禅もまた退けることはできないと思うのであります。

一つは修養になります。

人間社会を生きる上においては、やはり自己の身を修養することが大事になります。

欲望に振り回されぬように自らを調えることは必要です。

それから坐禅は信仰にも通じます。

これも大事なことなのです。

寺や修行僧の集まりである教団は、一般の方からの支援によって成り立っています。

寒い雪の日にもひたすら坐禅をするというのは信仰を生み出します。

巌頭禅師のようにいくら悟っていても寝てばかりいては、信仰にはなりません。

そこで、禅寺はやはり規律のある生活を大事にするようになっていったのだと察します。

今の修行道場でもそうであります。

寒い日でも朝暗いうちから起きてお経をあげて坐禅している暮らしは、信仰を生み出してゆくものです。

そうしてお寺は支援をいただいているのであります。

「一概に退ける訳にはいかぬ」とう宗演老師の仰せももっともなのであります。
 
 
横田南嶺

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