第1371回「感謝は難しい」

河合隼雄先生の『こころの処方箋』(新潮文庫)はとても良い本で、大いに学ばされます。

「人間理解は命がけの仕事である」という一章があります。

仏教は智慧と慈悲の宗教だとよく言われます。

平易にいうと、知ることと愛することです。

知ることと愛することとは、実は一つです。

本当にその人のことを知ることこそ、愛することにほかなりません。

人は自分のことを知っていてくれる、理解してくれると思うだけで大きな力を得るものです。

絶望のような状況にあっても、自分のことを理解してくれる方がいるだけで、生きる力になるものです。

般若波羅蜜という智慧の完成は、実は慈悲にほかならないのです。

般若波羅蜜を仏の母、仏母と言われるのも、真に知ることが仏の本質であると示しています。

仏は一切知者なのです。

あらゆることを知っていてくださる方だからこそ、それは真の慈悲の方でもあるのです。

それだけに知ることは難しいし、理解することは難しいのです。

河合隼雄先生は、『こころの処方箋』に、心理療法家という自分の仕事は、他人を理解することがその中核になっていると言っていいと書かれています。

本のなかに、「来談した人の悩みに対して、どうするこうするなどと言う前に、ともかくその人の気持ちを本当に理解することが大切である」と書かれているのです。

「ところが、その「真の理解」ということが実に大変なのである」というのです。

そのあとカウンセラーの方の実例を示してくれています。

懸命に相手を理解しようと務めて、その相談者も理解してもらっていると思って、どんどん話を続けてゆきます。

しかし、最後のところで、その人の気持ちを理解しきれていなかったのでした。

その結果カウンセラーの一言が、相手を絶望させてしまうことになってしまいました。

理解しようとし、理解してもらっていると思っていただけに、最後の落差は大きかったのです。

下手をすると、怒りの矛先がカウンセラーに向かってしまうこともあるそうです。

一所懸命に理解しようとしたが為に悲劇となる場合もあるという話なのです。

それだけに、「命がけ」という言葉は決して大げさでもないのです。

そのために命を落とす精神科医もいるのだそうです。

「理解しよう」という努力は命をかけることにもなるのです。

私など、とてもとても人のことを理解できてはいません。

もちろん理解しようと努力はします。

しかし、『こころの処方箋』の冒頭に書かれている、「人の心などわかるはずがない」ということは真理であります。

『こころの処方箋』の中に、

「強い者だけが感謝することができる」という一章があります。

この題だけみると、はてなと思います。

決して強くない者も、感謝はできるのではないか、いやむしろ弱い者の方が深く感謝できるのではないかと思ったのでした。

「感謝」とは「ありがたく感じて謝意を表すること」と『広辞苑』には簡単に解説されています。

『大漢和辞典』にも「感謝」は「ありがたく感じて御礼をいふこと」と簡単な説明があるのみです。

岩波書店の『仏教辞典』には「感謝」という言葉は載っていません。

ただ「祈り」の解説の中に、

その「本来的には、崇拝対象としての神や仏と信仰者との内面的な交わり・対話を意味し、懺悔(さんげ)、感謝、救済、神仏との合一(神秘体験)、願望の達成(祈願)、呪術(じゅじゅつ)的行為(祈祷(きとう))などをその内容とする」と書かれていて、「祈り」の内容として「感謝」があると説かれています。

「報謝」という言葉は載っています。

「四恩に感謝し報恩の誠を尽すこと」です。

四恩は「父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩」です。

『こころの処方箋』にあるカウンセラーの話として、こちらが何も特別なことをしていないのに、相談に来た人から感謝されることもあり、逆にその人のために、力の限りを尽くしてあげたのに、感謝の言葉を言われないこともあると書かれています。

こういうことは私も感じることがあります。

なにもした覚えがないのに、おかげさまでと感謝されることもあれば、いろいろ手を尽くしてあげたのに、なにも御礼も言われないことがあります。

もっともこちらは感謝の言葉を言って欲しいなどと思っていないのですが、それでもどうしてかなと思うことがあります。

時には、こちらが見返りとして感謝の言葉を求めないにしても、もう少し人に感謝できる人間になってほしいものだなどと思ったりしてしまうのです。

そこで河合先生は「感謝できる人は強い人です」というのです。

どういうことなのか、『こころの処方箋』から一部を引用させてもらいます。

「他人に心から感謝する、ということは大変なことである。

まず、そのためには、自分が他人から何らかの援助や恩義を受けた事実を認めねばならない。

弱い人はそもそもそのような現実の把握ができないのである。

それにつぎつぎと襲ってく不幸や災難に対処してゆかねばならないので、それに追われていて他人のことなど考える余裕がないのである。」

と書かれています。

この一文を読んで、私は大いに反省しました。

そうだ、感謝できないというのは、そんな余裕もないのだ、むしろ苦しんでたいへんな思いをしているからなのだとようやく思い至りました。

こちらの理解が足りなかったと大いに反省したのです。

もう少し感謝した方がいいのになどと思うのは、理解が足りていない証拠なのです。

ほんとに人のこころを理解するのは難しいのです。

そして有り難いと感謝できるのは、有り難いことなのです。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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