第1338回「本来あるものが今もある」

佐々木閑先生と古舘伊知郎さんとの対談本『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』を読んでいて、古館さんのこんな言葉が気になりました。

お二人の対談が実に読み応えのあるものです。

古舘さんが、

「悟った人は輪廻の輪から外れて、死んでも二度と生まれ変わらないとされていますが、それはなぜでしょうか。

たとえば、僕が死んで焼かれ、煙になって空に帰る。

それが雲と合流して森に雨が降って土へと戻る。

物質的なエネルギーの交換で考えると、私の自我がどこかに生まれ変わるわけではないことはなんとなくイメージできます。

けれど、修行によって執着を捨て、その力で輪廻から抜け出したいと願うのもまた、一種の執着ですよね。

その願いは輪廻の原動力にはならないのか、そのあたりがわからないのです。」

という問いであります。

仏教学的に考えますと、輪廻の原動力となる欲望と、悟りを求める願いとは次元の異なるものだということになりましょう。

天台小止観の二十五方便にも、はじめの方に、呵五欲とあって、五欲を制御することが説かれています。

五欲は、眼身鼻舌身という五感の対象を求める欲望です。

これは制御すべきものです。

しかし、そのあと、更に五蓋を離れ、五事を調えて、そのうえで行五法というのがあります。

五蓋とは、本来の正しい心に蓋いをして隠すという意味です。

貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑の五つです。

第一は貪欲、必要以上に物を欲しがることです。

瞋恚は、怒り腹立つことです。

睡眠は、身心が重苦しく、心が萎縮してしまうことです。

掉悔は、落ち着かないことで、心が乱れて騒ぐということ、 散慢になるということです。

疑というのは、疑いやためらいであります。

それから五事を調えるというのは、睡眠、食事、身体、呼吸、心の五つを調えるのです。

それらを調えた上で行五法があります。

欲という、仏道を願い求めることがあり、精進という努力を続けることがあり、念という悟りを得ようと念じ続けることがあり、巧慧という悟りを得る為にどうすればよいか工夫することがあり、そして一心という、心を一つに集中して専念することがあります。

そのように、よく心を調えたうえで、悟りを求める欲というのが積極的に行ずべきものとして説かれているのです。

しかし、古舘さんが疑問に思われたように、
「修行によって執着を捨て、その力で輪廻から抜け出したいと願うのもまた、一種の執着ですよね。その願いは輪廻の原動力にはならないのか」という思いもまた拭えないものです。

この疑問をつきつめてゆくと、私は馬祖禅師の教えになってゆくと思うのです。

馬祖禅師の言葉を紹介しましょう。

禅文化研究所の『馬祖の語録』にある入矢義高先生の訳文を参照します。

「そもそも、法を求める者は求めるものがあってはならない。心の外に別の仏は無く、仏の外に別の心は無い。

善に執せず、悪をも遮断せず、浄と穢の二極のどちらにも依存せず、罪が本質的に空であることを達得すれば、間断なく続く念もたち切られてしまう。念には固定的な本質は無いからである。」

「僧が問うた、「どういうのが道を修することですか」。答え、「道は修行に関係はない。

もし習い修めることが可能と言うなら、それが完成した時点で壊れてしまい、声聞と同じことだ。

もし習い修めないと言うなら 、凡夫と同じことだ」

「また問うた、「どのように了見すれば道に達することができますか」。馬祖、「自性は誰にも本来具わっているのだから、善悪の事象にかかずらいさえせねば、修道の人というものだ。

善を取って悪を捨て、空を観じて定に入るのは、無用の仕業だ。

その上、あくせくと外に道を求め回れば、ますますそれと縁遠くなる。

ただ妄心によって造作された三界の対象を断滅し尽くせばよいのだ。

一念の安心こそが三界生死の根本に他ならぬ。その一念さえなくすれば、生死の根本は除かれ、仏の無上の宝物を手に入れるのだ。

無量劫より以来の凡夫の妄想や、へつらい・よこしま・慢心・思い上がりが一つに合わさったのがこの身だ。

だから経典にも言ってある、『ただあらゆる物が結合してこの身と成っただけだ。

生起する時はただ物が生起するだけであり、消滅する時はただ物が消滅するだけだ。」

「示衆に言われた。「道は修習する必要はない。ただ、汚れに染まってはならないだけだ。

何を汚れに染まるというのか。もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。

もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。

何をあたり前の心というのか。ことさらな行ない無く、価値判断せず、より好みせず、断見常見をもたず、凡見聖見をもたないことだ。」

「「あらゆる法は全て仏法であり、様々な法そのものが解脱である。解脱は即ち真如に他ならず、様々な法は真如の外に出るものではない。

日常の挙措動作は、どれもこれも思慮を絶した働きであって、特定の時期に枠づけられてのものではない。

経に言っている、『ありとあらゆる処に仏は遍満している』と。」

「本有今有、修道坐禅を仮らず。不修不坐、即ち是れ如来清浄禅なり。」

「本来有るものが今も有るのだから、修道や坐禅は必要がない。修道もせず、坐禅もしない、これが如来清浄禅に他ならない」

「馬大師は言われた、「君がもし心を知りたいというなら、今そのように語っているものが、君の心そのものなのだ。

その心が仏と名づけられるものであり、また実相法身仏でもあり、道とも呼ばれるものだ。」

というような次第です。

馬祖禅師のお弟子に大珠禅師という方がいらっしゃいます。

ある僧が大珠禅師に聞きました。

大涅槃とはどのようなものでしょうかと。

大珠禅師は、迷いを起こさないことだと答えました。

では迷いとはどのようなものですかと問われて大珠禅師は、

涅槃を求めるのが迷いの行いだと答えているのです。

しかしそうかといって何も修めないのではただの凡夫のままにすぎないのです。

どうしたら、この心がそのまま仏であると自覚することができるか、いろいろの修行があるのです。

その一つに看話禅という禅問答もあるのです。

ただ「本来有るものが今も有る」という自覚が大事なので、方法は様々あるのです。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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