第1353回「講演 鎌倉の禅」

横浜市歴史博物館で九月十四日から十一月十日まで、寶林寺東輝庵展が開催されています。

開催されたその日に、講演を頼まれてお話させてもらいました。

寶林寺東輝庵展というのはどんな展覧会かというと、パンフレットには次のように書かれています。

「寳林寺(ほうりんじ、横浜市南区)は15世紀頃開創され何度かの無住期間を経た後、18世紀中頃、近世禅宗史上欠くことのできない「鎌倉禅」の祖といわれる月船禅慧が寳林寺内に東輝庵(とうきあん)を営みます。

そこには、鎌倉・円覚寺中興の祖といわれる誠拙周樗や仙厓義梵、峨山慈棹、物先海旭といった多くの名だたる禅僧たちが集い、永田村は東輝庵を中心に地域との交流が生まれ、文化的土壌が醸成されます。

本展は、横浜・永田の地に華開いた禅文化にふれるとともに近世禅林の源流をたどります。」

というものです。

寶林寺様は、円覚寺の百二世住持の大雅省音禅師が開山となっています。

室町時代の十五世紀までには開創されていました。

本尊の釈迦如来は、お寺の開創よりも古い平安時代の仏像なのであります。

私の講演では、鎌倉時代に栄西禅師が日本に禅を伝えた話から始めました。

栄西禅師は二度も宋の国に渡り、二度目の時には臨済の禅を学んで日本に伝えました。

大日能忍と共に京都での禅宗布教の停止を言い渡されながら、博多に聖福寺を建立します。

日本で最初の禅の寺です。

京都には禅の寺を作ることは、比叡山をはじめ旧仏教の勢力が強くて困難でした。

栄西禅師は鎌倉幕府に招かれ、頼朝公の一周忌の法要の導師を務め、さらに寿福寺を鎌倉に開創しました。

そんなことで鎌倉幕府とご縁ができて、二代将軍源頼家公が開基となって京の都に建仁寺が出来たのでした。

建仁寺は、まだ天台や密教と共に禅を学ぶお寺で、禅の修行のみを行うものではありませんでした。

更に蘭渓道隆、大覚禅師は日本に来朝して、北条時頼公が、建長寺を開創しました。

ここではじめて本格的な禅の道場ができあがります。

さらに兀庵、大休などの来朝僧が相次いで、無学祖元禅師は、北条時宗公の招きで日本に見えました。

時宗公が円覚寺を開創したのでした。

開山は仏光国師、無学祖元禅師でありました。

そのようにして鎌倉時代に鎌倉という地に、本格的な禅の道場ができあがっていったのでした。

時代が下って、江戸時代になると、『円覚寺史』にも「沈滞の気風」と書かれているように宗風が振るわない時期がありました。

『円覚寺史』には、

「口碑によると、圓覺寺山内の諸僧が、どてらを着て、博奕にふけつてゐたといふが、まさかそれがそのまま事實とは思へないが、」と書かれていて、
更に「矢張り、相當の風俗綱紀の紊亂はあつたものと見える」と書かれているのです。

しかも「一旦大切な舍利を正續院内の昭堂舎利殿の中の龕に安置するとなると、これを供養守護する人が必要になって来るが、山内は無人であったらしく、その係りを捻出出来ないとみえ、正續院自身も殆ど無人に等しかつたらしい。

そこで東山周一は一山の役者を集めて衆議し、月船和尚のところにお願して、舎利供養守護のための衆の斡旋をお頼みすることにした。」

ということになったのでした。

この月船という方が、寶林寺東輝庵にいらっしゃったのです。

月船禅師は、今の福島県の小野町の生まれで、地元の高乾院で出家しました。

諸方を行脚して修行し、高乾院に三十二、三才から四十二歳くらいまで十年ばかり住しています。

しかし不思議なことにどうしてか円覚寺派の永田の宝林寺に東輝庵という小庵を結んで閑居したのでした。

このあたりのことは謎であります。

円覚寺派の名刹宝林寺の住持というわけでもなかったようです。

まさに寓居していたのでした。

それが「一住三十七年恬として一日の如し」と言われるように、ほとんど外に出ずに専ら修行三昧の生活だったようです。

韜光晦迹といって、修行したという跡を隠して、村人の中にとけ込んで、子供たちに文字や文学を教え、村の人たちを知らず知らずのうちに仏法に帰依させていったという、禅門の理想の教化をなさいました。

今のように情報の発達した時代ではありませんが、その徳風が伝わって、全国からあちこちの雲水が集まって、庵の中には入り切らなくて、村の小屋や牛小屋に住んで月船禅師に参禅したようです。

当時の月船禅師の元には、後に相馬の長松寺に住する物先海旭禅師や、後に博多の聖福寺に住して有名になる仙厓義梵禅師などのほかに、後に白隠禅師のもとの参じた峨山慈棹禅師や隠山惟琰禅師など錚錚たる禅傑が修行されていました。

そんな中を若き誠拙禅師も修行されました。

そうして月船禅師の元で修行がほぼ完成したころに、円覚寺で僧堂を再興しようという気運が起きて、誠拙禅師が東輝庵から円覚寺にお入りになったのでした。

決して順風満帆ではありませんでしたが、逆風の中をひたすら坐禅指導に励み一生涯を僧堂のために尽くされました。

天明元年誠拙禅師三十六歳の時、正式に前版職という今日の僧堂師家に任ぜられました。

そうして円覚寺の僧堂を復興されました。

これだけでも一大業績ですが、八王子の広園寺にも僧堂を開単されました。

更に京都に上り天龍寺にも僧堂の礎を築き、相国寺にも僧堂を開いたのでした。

そのように月船禅師ゆかりの禅僧たちの墨蹟などが多数出展されています。

私も初めて拝見するものも多くて、見応えがありました。

それから明治時代には、釈宗演老師が、洪川老師のもとで修行を仕上げて後、寶林寺東輝庵でご指導なさっていたのでした。

今回の展示では、永田村の名主服部家との関わりや、保土ケ谷宿の軽部家とのご縁について学ぶことができました。

また『寶林寺東輝庵展』という立派な図録もできあがっていました。

横浜市歴史博物館の吉井大門さんが次のように解説を書かれていました。

「白隠会下の鵠林派が駿河の有力な檀家や在家居士、その外円の杖払衆、観音講などによって物心ともに支援され林下の教団として成り立ったように、名主服部家を中心とした永田村と「宝林寺 東輝庵」の禅僧にとって、文化的機能を成立させるための「寳林寺 東輝庵」、一方では集団修行を成立させる修行道場としての「寳林寺 東輝庵」を維持するという双方向的利得の一致を持った表裏一体をなす関係性の一端が垣間見えよう。」

という新たな視点を得ることができました。

講演をさせてもらい、そしてまた学ぶことが多いものでした。

これだけの展示ができる寶林寺さまの偉大さを改めて思い、そして展覧会を開催してくださった横浜市歴史博物館の館長はじめ皆様のご苦労に感謝しました。

会期中には講演会やギャラリートーク、ワークショップなども盛んに行われるようですので、是非ともおすすめします。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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