第1358回「全生庵で法話」

彼岸会の入りの日には、東京谷中の全生庵さまの彼岸会法要の法話を務めさせてもらいました。

もうこれでちょうど十年になります。

十年変わらずお招きいただいているのは有り難いことであります。

十年お話をさせてもらったというお礼の気持ちで、帯津先生との対談本『心とからだを磨く生き方』をみなさんに施本させてもらいました。

帯津先生は、全生庵さまにお墓をお持ちであります。

全生庵さまのお檀家であります。

春の彼岸会には、帯津先生がお話をなさったとうかがいました。

全生庵さまにご縁の深い先生でいらっしゃいます。

全生庵さまには、いろんな方がお話になっているので、毎回どんな話にしようかと工夫します。

あれこれと準備して臨んでいます。

今回もあらかじめ法話の準備をしていました。

しかしながら、その前日諏訪中央病院で「幸せな最期を迎えるために」という講座を行って、その時の話が全体としてとてもよくまとまっていたと感じましたので、用意していた法話を急遽取りやめにして、その話をしました。

これはちょうど小池陽人さんのYouTube法話で、「幸せの見つけ方」という題の法話を拝聴した影響が大きいのでした。

その法話の中で小池さんは、人に伝わりやすいスピーチの三要素というのを教えてくださっていました。

まず第一は「自分の話であること」です。

人の話では伝わりにくいのです。

それから第二は「最近の話であること」だそうです。

「今から五年前に」というだけで人はひいてしまうというのです。

実は、今日ここに来る前にというような話をすると、人は引きつけられるというのです。

第三は「物語になっていること」だというのです。

物語になっていると、人は最後までどうなるのかと気になって聞き入るということです。

なるほど、小池さんの法話が魅力的なのは、こういうことも勉強しておられるからだと改めて感服しました。

そこで、なるほど最近の話がいいのだと思って、法話のはじまりから、実は昨日長野県茅野市の諏訪中央病院で話をしてきて、そのとき、私の話以外にも病院の方の話、漢方医の方の話、全体がとてもよくまとまっていたので、是非ともお伝えしたいと思いますと、切り出してみたのでした。

ですから原稿はありませんし、簡単な話のメモだけを持って法話をしたのでした。

今までですと、こういう冒険的なことは難しいと思っていましたが、これも小池さんの法話のおかげと、すこしばかり慣れてきたおかげかと思いました。

原稿も資料も無しですから、みなさんのお顔をずっと見ながら話をします。

昨日の管長日記で書いたように、諏訪中央病院のほろ酔い勉強会で「幸せな最期を迎えるために」という題で勉強したのです。

はじめに、病院の看護師の方が、在宅看取りと、お食いじめについて実際の活動の話をしてくれました。

幸せな最期を迎えるための具体例といって良いでしょう。

どうしたら幸せな最期を迎えられるのか、出来れば慣れ親しんだ家で死を迎えたいと思うものです。

できれば最期にはみんなで好きなものを食べたいと思うものです。

それらをかなえるようにみんなで努力することは素晴らしいことです。

その話を聞きながら、死というのは、当人だけの問題ではなく、まわりの者たちの問題もあると感じました。

まわりの者も、亡くなる方に対してできるだけのことはしてあげたという思いをもってもらうことが大事なのです。

たださえ、お身内をなくすと、その喪失感だけでも大きなものです。

そこにもっと、ああしてあげればよかった、もっとこうしてあげたらよかったのにという後悔が残ったりすると気の毒なのです。

まわりのものが、できる限りのことをしてあげる、これも大事なのです。

しかし、そうはいっても人生無常です。

いろいろ考えて用意していても、その通りになるとは限りません。

不慮の事故や災害にあうこともあります。

思った通りに死を迎えることができないこともあるのが世の中です。

最期の食事を用意している間に亡くなることもあるのです。

そこで、いつどこでどのような死を迎えてもいいように、死生観を持つことだと私が話をしたのでした。

それから幸せというのは、感じる心が大事です。

お水一杯いただいても幸せと感じる人もいれば、山のようなご馳走があっても不平不満をいう人もいます。

まずは小さなことでも幸せだと感じる心を養っておくことです。

そして死は亡くなることではなく、大いなる命の世界に帰ることだという安心感を持っていることです。

安積得也さんが、

手いっぱい
眼前のことで手いっぱいのときも 
花を忘れまい 
大空を忘れまい
おおいなるものましますことを
忘れまい(安積得也『一人のために』)

と詠っておられます。

そのように大いなるものに抱かれての毎日であり、死は、その大いなるものに帰ることだという安心であります。

そして、最後は感謝の思いです。

その感謝の思いを言葉にして表すのです。

ありがとうのひとことです。

幸せと感じる心の大切さと、ありがとうという感謝のこころを持つことの大切さを私は話したのでした。

そして最後に漢方医の桜井先生が、死は捨て去ることだから、普段から捨てること、出すことを心がけておくようにと話してくださったのでした。

『菩提和讃』というお経には、

田畑数多(あまた)有とても 冥土の用には成ぬもの
金銀財宝持つ人も 携え行ゆべき道ならず
妻子眷族ありしとて 伴い行く事更になし

という言葉があります。

どんなに田畑や財産を持っていても、それは死に際してもってゆくことはできません。

妻子や家族も付き添ってはくれないのです。

すべてを出して、捨てて、おいてゆくのです。

だから普段から差し上げる、施すことになれておくことが大事だと桜井先生は仰っていました。

そこでまとめますと、幸せな最期のために在宅看取りやお食いじめなど、あれこれと方策を考えること、しかし、人生はどうなるか分からないので、幸せの感度を高めて、死生観を持って生きること、ありがとうという感謝の気持ちをもつこと、そして出すこと施すことを心がけて生きることなのです。

こう考えてみますと、幸せな最期を迎えるためにと考えていると、幸せに生きることに通じるのです。

幸せと感じるこころを養い、感謝の心をもって、施すことに心がける、これは人生を幸せに生きる秘訣だと思ったのでした。

そんな最近気がついたことを全生庵さまでお話させてもらいました。

法話の終わりには有り難いことに拍手を頂戴しました。

拍手は人をだめにするとは肝に銘じていますが、これは有り難い拍手だと感じました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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