第1361回「無力感」

先日の早稲田大学での講演の折に、聞き手となってくださった小川隆先生は、森信三先生の「最善観」について触れられました。

これは今年の八月六日の管長日記に書いたものです。

「最善と思って生きる」という題で書いたのでした。

森信三先生は「絶対必然即絶対最善」とも仰せになっています。

「いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、またこの私にとっては、最善なはずだ」

「自己に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯です。」

という言葉を紹介したのでした。

最善観というのは、森先生によれば、「オプティミズム」という言葉の訳語であって、通例では、「楽天観」とか「楽天主義」と訳されるものです。

「楽天主義」などというと、ずいぶん趣が異なるように感じます。

森信三先生の『修身教授録』には、次のように書かれています。

「元来この言葉は、ライプニッツという哲学者のとなえた説であって、つまり神はこの世界を最善につくり給うたというのです。

すなわち神はその考え得るあらゆる世界のうちで、最上のプランによって作られたのがこの世界だというわけです。

したがってこの世における色々のよからぬこと、また思わしからざることも、畢竟するに神の全知の眼から見れば、それぞれそこに意味があると言えるわけです。

簡単に申しますと、大体以上のようなことになるわけです。」
と説かれています。

更に「このようなライプニッツの所説も、大学の学生時代には、一向現実感を持って受け取ることのできなかった私も、卒業後、多少人生の現実に触れることによって、しだいにその訳が分かりかけてきたわけであります。

そこで今この信念に立ちますと、現在の自分にとって、一見いかにためにならないように見える事柄が起こっても、それは必ずや神が私にとって、それを絶対に必要と思召されるが故に、かくは与え給うたのであると信ずるのであります。」

というのであります。

そして森先生は確信をもって、

「いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、またこの私にとっては、最善なはずだというわけです。」

と説かれているのです。

森先生ご自身幼少のころから不遇な経験を幾たびもなさっているのです。

それだけに、このように仰せになるということには説得力があるのです。

しかし、八月六日に書いたのは、森先生の教えを深く学ばれた兼氏敏幸先生の言葉です。

兼氏先生は、

「ところが実際に不幸に遭われた方や、肉親を亡くされた方に対しては、「絶対必然即絶対最善ですよ」なんて言えないですよね。

言っても、「何を言ってるんだ」というふうになると思います。そういうときには、やはり一緒にそばにいて一緒に泣いてあげるしかないんじゃないかなと思います。」

と仰せになっています。

これもまたまさにその通りなのであります。

早稲田の講座の折にも私が出家してはじめて関わった葬儀である、御巣鷹山に墜落した日航機の事故の犠牲者の方の葬儀の話題になりました。

その折の遺族の悲しみは、実にいたたまれないほどのものです。

小池心叟老師は、ただ遺族の悲しみを親身になって聞いておられました。

こういうときに最善とは言えないものです。

この頃もまた同じ思いをいたします。

今年の正月に震災で大きな被害を受けた能登地方に、このたびまた大雨で大きな被害を受けておられるのです。

記録的な豪雨に見舞われた能登では、平年の九月一カ月分の二倍余りに上る雨が降ったといいます。

お亡くなりになった方、行方不明の方が何名もいらっしゃるのです。

円覚寺の塔頭で、今月の末に、能登の復興のための催し物を企画していて、私も些か協力しようと思っていたのですが、それも開催できなくなったのでした。

なんということかと思います。

お身内を亡くされた方、まだ行方不明の方のことを思うと、なんとも言葉になりません。

こういう時もまた、これが最善とは言えるものではありません。

早稲田の講演の折にも最後に、医師の方が質問されました。

痛みに苦しむガンの患者に、最後に痛みを和らげる為の注射をするそうです。

そうしますと、意識も薄らいでしまうそうです。

そんな時にどんな言葉をかけたらいいのですかという質問でした。

この質問にも言葉が出てきませんでした。

かつて五木寛之先生と対談して、それが本になっています。

『命ある限り歩き続ける』(致知出版社)という本です。

その中に五木先生が、慈悲の「悲」について次のように語ってくださいました。

「人間には激励してもどうにもならない時がありますね。「もう言わないでくれ」という時があります。

例えば末期癌の人を見ていて、「必ず治りますよ、新しい手術がありますから大丈夫ですよ」というようなことを言えば言うだけ、相手は「もう言わないでくれ。俺はもうちゃんと覚悟してるんだから」という気持ちになるでしょう。

その時に「頑張れ」というのは非常に酷だし、聞いているほうは嫌なんですよ。

どうして頑張れなんて言うんだと思ってしまう。
 
それに、人の痛みや苦しみを自分が半分引き受けたいと思っても、それはできないですよね。

どんな思いがあっても、人の苦しみはその人の苦しみであって、それを半分自分が分けてもらって背負うことはできません。

ではどうすればいいかというと、無言のまま自分の無力感に打ちひしがれながら、その人の隣りに座ってじっと相手の顔を見ていることしかないんです。

その時のなんとも言えない無力感、ため息のことを「悲」と言うのでしょう。」

というのです。

今改めて五木先生の言われた「無言のまま自分の無力感に打ちひしがれながら、その人の隣りに座ってじっと相手の顔を見ていることしかない」という言葉を胸に刻みます。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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