第1325回「夢窓国師の最期」

夢窓国師七一歲の四月八日、天龍寺に法堂をひらきました。

八月には、後醍醐天皇の七周忌を修しています。

七十二歳で天龍寺の住持を退いて、雲居庵にお入りになっています。

無極志禅師が天龍寺の二世となりました。

七十四歳の時、花園法皇が崩御されています。

七十六歳の二月、両太上皇后が受衣されます。

この年に足利直義と高師直の軍が戦い、観応の変がおこりました。

これは観応の擾乱ともいい、『広辞苑』には、

「観応元~3年(1350~52)に起こった足利尊氏・直義両派間の全国的内乱。

尊氏派の首領高師直一族の滅亡など一進一退し、直義の毒殺によっていちおう終結。」と解説されています。

夢窓国師七十七歳の正月、足利尊氏は播磨におちて、市中に戦乱がひろがりました。

最晩年まで夢窓国師は動乱の時代を生きたのでした。

七月二十日、天竜寺の僧堂ができて、天龍寺に再住なされました。

八月、多宝院で後醍醐天皇の十三年忌を修しました。

「真浄界中、他無く自無し。豈、怨親を其の間に容れんや。」の語が見えます。

病が深まって、九月に入ると、光厳、光明の二上皇が三会院に問疾されました。

臨幸は二度におよびました。

二十七日、末後遺誡、遺偈の作があり、遺命して無極志玄を三会院の塔主としました。

九月三十日、ここに入寂なされました。

遺偈は

転身の一路、
横該竪抹す。
畢竟如何、
彭八刺札

です。

意味については『日本の禅語録七 夢窓』に柳田聖山先生は、

「転身の一路とは、六道の一角に、今仮りに宿をとることであり、さらにそこを起つことだ。そして、第二句に「横に該して竪に抹す」というのは、一筆でサッとそれをなで消すことである。

横に竪にとは、思いのままの意である。

かれは、転身の一路を消してしまう。

さいごの「彭八刺札」は、鼓などのかけ声である。

「ヤァーサ」という謡の合の手である。

「八札」とも書かれて、やはり宋の五祖法演にその先例があり、後の禅者もまたこの句を好んで使う。

仏鑑にも仏光にもある。

三世の諸仏と手をとりあって、夢窓は鼓の声とともに姿を消す。

漸く見せた本身であった。人々は、かれの脚下を見たであろうか。」

と説かれています。

また『NHKこころをよむ 大燈を語る 夢窓を語る』には、

「転身の一路、
横に該し竪に抹す。
畢竟如何、
彭八刺札

私は今、向きを変えて、一歩をすすめる、そこにはおよそ、路というものが、完全に塗りつぶされた大地。

さて、どう踏み出すのか、

ヤアーホー。

第一句、転身の一路とは、新しい旅立ちの決意、かつて歌った放蕩息子の、東西白く踏む一条の路を、がらりと転回させる気合いです。

第二句は、タテとヨコに、大きいバッを書いて、いっさいの方向づけを拒否するところ、今までのはもちろん、これからの足あとを、完全に消し去るのです。

さてそれでは、と第三句。前も後も、左右も消えました。

そして第四句の彭八刺札。

これは、一歩踏み出す誘いの声です。

漢字ではいろいろ標記があるのですが、勢いよく鼓をうって、気合いをかける、おはやしの音、ヨーイヤーサーです。

夢窓は、そんな呼び出しの声と共に、しずかに姿を消すのです。

みごとな別れ。大いなる、入涅槃でした。」

と解説されています。

「該」は「つつむ、ふくめる。充分にゆきわたる、通じる」という意味です。

「抹」は「なすりつける。さっと過ぎる。」という意味があります。

また「抹」には「ぬりつぶす、ぬりけす」という意味があります。

実は私、柳田先生のこの解釈については長年疑問に思っていました。

どうも違和感を覚えていました。

しかし、偉大なる禅学者の解釈ですから、そういうものかなと思ってきていました。

最近、この「橫該竪抹」について親しい仏教学の先生にうかがってみました。

その先生は、「該」と「抹」という二つの動詞は基本的に同義語とみなされていました。

「橫~竪~」というのは自由になになにできるという意味です。

そしてこれは「竪に三際を窮め、橫に十方に亘る」というのと同じだろうという見解でいらっしゃいました。

「究極的な真理が全宇宙に満遍なく行きわたり、しかもそのはたらきが何の妨げもなく自由自在であることを表すもの」というのです。

これは、柳田先生の解釈とは反対であります。

しかし、これにも私は少々違和感を感じるのであります。

「該」は「つつむ、ふくめる。充分にゆきわたる」という意味であり、「抹」は「ぬりけす、拭い去る、抹消する」という意味です。

すべてを覆い尽くすことと、消し去ることの二つだと思います。

「全世界を覆い尽くすように自由に身を現すこともできれば、自由に消し去ることもできる」という意味ではないかというのが、私の見解であります。

夢窓国師のご生涯を拝見しますと、まさに身を全世界に覆い尽くすように、山梨から鎌倉、四国土佐まで、そして京の都と、到るところに身を現して活躍なされました。

またいつまでもそこに執着することなく、今や末期に臨んで全身を消し去ることもまた自由自在なのであります。

十分に働くだけ働き尽くして、今度は身を消し去ってしまうのです。

どちらもなんのこだわりもなく自由自在だという意味だと受け止めてみたいのであります。

最後は、

「畢竟如何、彭八刺札」となっています。

「彭八刺札」を先代の管長は「ほんぱらっさ」と読まれていました。

これは、もともと五祖録に見ることができる言葉です。

五祖録では、「堋八囉札」となっています。

『禅学大辞典』には「ほうはちらさつ」と書かれていて「鼓の擬音語、又は鼓を打つときの掛け声」と解説されていて、「ぽんぱろうさ」という読み方も書かれています。

『禅語辞典』には「歌舞音曲の合いの手のかけ声」と解説されています。

夢窓国師は、こんな掛け声と共に入滅なされたのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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