雨のマラガとドイツ人の橋 -Málaga-
スペイン アンダルシア州、マラガ(Málaga)は年間300日ほど晴れと…
5月もほとんど雨は降らないと言うが… この日、結構降っとりました。。。
ネルハ(Nerja)からバスでマラガに到着、とりあえずホテルにチェックイン、散歩の準備をして出掛けることに。
マラガは、皆様ご存知の天才画家 パブロ・ルイス・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso)の生まれ故郷、ピカソは10歳まで暮らしていたらしい。
ここマラガには、ピカソの生家博物館(Museo Casa Natal de Picasso)、
ピカソ博物館 (Museo Picasso Málaga)がある… が行っていない。
マドリードのソフィア王妃芸術センターでゲルニカを見た感動、バルセロナのピカソ美術館に行った経験… それで、良しとした。
そう、お散歩スナップ写真とお食事と、"ドイツ人の橋"のお話になる。
そして、残暑御見舞い申し上げまして、雨の… 少し涼の感じられる写真でもと思っております。。。
マラガの港と遊歩道 -Puerto de Málaga-
まだ陽は沈まない時間、18時半ぐらいだったか… 雨で少し暗いが写真は撮れるぐらい。雨ならではの情緒や雨の風景を好きに撮ってみる経験でもしてみれば良いのではないかとポジティブに。
1~2時間ぐらいぶらついてから夜ご飯をどこかで食べる予定にしていた。
では、Palmeral de Las Sorpresas、日本語に訳すと"驚きの椰子の木立ち"…
観光スポットの遊歩道からのスナップをサーッと。(2016年に撮影)
雨宿りを兼ねて…
何やら手作り家具のお店?があったので軒先で雨宿りを兼ねて、外の風景写真を撮ってみた。
屋根のある所では撮りやすいが、スナップ写真なので移動しつつ構えて撮ると… 傘がさせんな…
ということで同居人が、"アタイが傘を持っててあげるから撮ればと…"
Muchas gracias, Cariño… ありがとう、お手数おかけ致しますぅ。。。
ポンピドゥーセンター マラガ -Centre Pompidou Málaga-
フランス パリにあるポンピドゥーセンターの分館、通称"CUBE"キューブと呼ばれていた上の立方体の建物。
2015年から5年の期間限定と聞いていたが、さらに5年間延長するという発表で2025年まで近代美術アートなど展示予定。その先は、わかりません…
地下展示スペースで、ピカソなど有名芸術家の作品、現代アートが展示されているとの事で中を観たかったが、時間がない時に慌てて観るようなところではないと断念した…
老舗レストラン -Bodega El Pimpi-
お散歩スナップ途中1時間ほどで雨が止み始めた。そろそろ暗くなって来て、夜ご飯にすることに。
老舗のピンピ(El Pimpi)、この頃は既に観光客も多い人気レストランとなっていたが、10年マラガで暮らした知り合いから聞いた話では、"昔は、マラガ地元のホンマの親父バルだった"と。
店内の方で食事したかったが、予約や常連客やらでそちらは満席…
外のテラス席も結構広かったのでそちらで。
ドイツ人の橋 -Puente de los Alemanes-
ホテルへの帰り道、たまたま通った小さな鉄橋…
手前で一枚、渡り切る手前で見た銘板を写真に撮った。
この橋は1984年ドイツ連邦共和国(統一前の西ドイツ)の支援で復元され、
マラガ市庁舎は、寛大なドイツ国民への感謝の意と愛情を記録します。
と銘板に書かれていた。
その時、どういう経緯??? ぐらいのイメージで既に忘れていたが、
今回、久しぶりに見た写真で???だった事を思い出したので調べることに。
この橋に関する新聞社のデジタル記事などを読んだが、始まりは1900年12月マラガで起こった"ドイツ フリゲート艦SMSグナイゼナウの沈没"まで遡るところから始まっていた。
当時、スペイン、近隣諸国でも大きなメディアの一面を飾った出来事と。
いろいろ検索、内容が薄い記事は多数、現役マラガ大学名誉教授?が過去にデジタル誌に書いた長文記事、ここ数年内のドイツ語の地域型ポータルサイトにあった記事、地方紙記事には、マラガの人の犠牲者の数は非公式で、実際は0だったと書いている記事も…
どれもgoogle翻訳さんを使いながら読んだ。
読んだ記事を書いた人に教えたい… "知らんけど"の使い方を。。。
120年以上前のグナイゼナウの沈没に関する文書等はあれど、公文書はないようだ。物書きでない、ただの革小物職人のわたしはどう書けば良いのか?ただの年表で良いのかも?と考えつつ。
現役の方かわからないが、マラガ大学名誉教授の書いた記事を忠実な翻訳…ではなく、参考として多少文面を変え、省略して書きます…
某国営放送で歴史ドキュメンタリー番組が出来そうな長い記事。
(全文スペイン語)
EL «PUENTE DE LOS ALEMANES» DE MÁLAGA.
LA TRAGEDIA DE LA FRAGATA ALEMANA SMS GNEISENAU
すべて真実かどうかは、知らんけど。
ドイツ フリゲート艦SMSグナイゼナウの悲劇
1900年、スペイン、ドイツ帝国の良好な関係の強化と外交活動の一環にて、11月15日にマラガ港に到着したドイツ フリゲート艦SMSグナイゼナウ(乗組員計466名)は、12月初旬から砲撃演習として桟橋から約800メートル離れた湾に停泊していた。
12月16日、朝から天候の悪化を告げる港の岩場を襲う強い波のためスペイン海軍司令官はグナイゼナウ号の司令官(艦長)に、船を港内に停泊させるよう戻ることを勧めた。
しかし、艦長はその忠告を無視し、来たるべき嵐にうまく対処するために湾から離れ全速力でエンジンをかけて海に出すように命令する。
次第に荒れ狂う嵐の海と強風に耐えられずエンジンは完全に停止し漂流、錨を下ろすも防波堤へ向かって押し流されたグナイゼナウ号は為す術なく港のドックに衝突、船体内部に浸水し始め、徐々に水没して行く。
ドックへの衝突を利用し岩場へ飛び移り脱出する多くの乗組員、救命ボートに乗り込むも高波で転覆し船の破片や岩場に打ちつけられる船員、荒れ狂う波に飲まれる船員、帆柱の上に登る船員…
嵐に翻弄され、桟橋に何度も衝突するフリゲート艦の陰惨な光景を目の当たりにするマラガの人たち。
状況の深刻さに自発的に即時行動したマラガの人々、船で海へ救助に向かった人、救命具として海に向かってロープを投げる人、次々に集まって来るマラガの人たち… 陸から近づくには、嵐が静まるのを待つ必要があった。
後に救出された乗組員は兵舎、重傷者はノーブル病院へ搬送され、赤十字は残りの生存者のために市庁舎に多数のベッドを設置した。 ドイツ将校らはマラガのドイツ領事の家で受け入れられた。
この悲劇によりドイツの乗組員41人が命を落とし、その中には艦長、副官、機関長も含まれていた。そして乗組員の救助を行ったマラガの人たち12人が命を落とした。
地元当局とドイツ総領事館の主導で、犠牲者の埋葬は市内の英国人墓地で行われ、マラガの住民は、敬意を持って沈黙を守りながら全行程に沿って葬列が進むのを見守った。
崇高かつ無私無欲の行動に対し、マラガ市は、摂政マリア・クリスティーナから息子アルフォンソ13世の名において"Muy Hospitalaria"非常に親切な都市の称号を与えられ、今日に至るまで街の紋章にその名を残している。
グアダルメディナ川の氾濫と大洪水
数年後、1907年 9月 豪雨により、マラガのグアダルメディナ川が氾濫、市内のいくつかの橋が崩落する大洪水災害が起こる。
このニュースがドイツに伝わり、過去の"グナイゼナウの難破"を知るドイツ人たちによる支援の募金活動を皇帝ヴィルヘルム 2世自身が多額の資金で主導、集められた募金によって元の位置に橋が建設されることになる。
1909年、"ドイツ人の橋(サント ドミンゴ橋)"が建設される。
橋の中央にある銘板には"ドイツは、フリゲート艦グナイゼナウの難破に対して市が与えた英雄的な支援に感謝し、マラガにこの橋を寄贈した"と書かれていると。
この時、わたしが写真を撮ったのは東側から、確認できる文字は橋の2つ名前。反対側の裏面に上記のことが書かれているのだろう。
老朽化による橋の修復
1982年、長年の時を経た橋の老朽化により、当時のマラガ市長が旧ドイツ連邦共和国政府(西ドイツ)に橋の修復のため協力を求め、1983年から1984年にかけて実施。
(旧ドイツ連邦共和国政府は修理費用を自発的に負担すると申し出た)
マラガ市庁舎が援助に感謝する銘板を橋に設置する。
わたしが撮影した銘板は、そういうことだった。
1992年、サント ドミンゴ教会に対して90度の角度を確立するために、橋は元の位置から移設された。
2009年、橋の建設100周年記念式典が開催され、マラガ市長、ドイツ領事館やドイツの貴族の著名人も出席した。
こんなことが過去にあった橋でした。。。
過去にたまたま通った場所で撮った、たった2枚写真で寝不足になった。
わたしの好奇心も、いい加減にしておかなければならない…
ただ橋を通っただけの異国の人であるわたし… 政治的なこともあったと思うが、友好的な方へ向かった話とだけ解釈している。
また移動
過去から現代のことを挟んでしまったが…
この日は朝早くグラナダからフリヒリアナ 、ネルハ、マラガと移動に次ぐ移動で疲れた日だった。
そして次の日…
翌朝、スペインの新幹線 AVANTに乗り"コルドバ Córdoba"へ移動した。
ではまた ¡Hasta luego!