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ロンドン大学式不都合な証拠の隠し方 映画学辞典編
人文系の常識である「不都合な証拠を隠す」ことによって、事実ではないことを事実であるように見せかけると同時に、他者の意見を間違いであると断定した実例を、「ロンドン大学式不都合な証拠の隠し方 タランティーノ著書編」に続いて示します。
前回と同様に、東京大学卒、ロンドン大博士である武蔵大学人文学部教授北村紗衣先生のブログ記事「須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について」を具体例として取り上げます。北村先生は、大学教授をはじめとする学術機関に籍を置く人など約1,300人が署名したオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」の呼びかけ人として知られています。
ここでは、北村先生の主張とその背景について簡単に振り返ります。太田出版のWebマガジンに掲載された北村先生の記事「メチャクチャな犯人とダメダメな刑事のポンコツ頂上対決? 『ダーティハリー』を初めて見た」において、北村先生は「アメリカンニューシネマあるいはNew Hollywoodと呼ばれる映画のカテゴリーの主な特徴は「あからさまな暴力やセックス表現」」と主張しました。さらに、この主張は「そこらへんの映画に関する事典や最近の英語の研究書にのっているようなあたりさわりのないことしか話していません。」と断言しました。
60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッドと呼ばれます)という潮流がありました。何らかの体制に抑圧されている若者たちが、なんとかして現状を打破しようする反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられます。
いわゆるNew Hollywoodの映画は論者によって指す範囲や重視する特徴が異なるのでなかなかつかみにくいのですが、ざっくりまとめて考えた時によく言われる特徴のひとつが、それまでのヘイズコード(プロダクションコード)下にあった映画に比べてあからさまなセックスと暴力の描写である、というのは映画批評ではあたりまえの位置づけであって「相当な無理がある」というようなものでは全くありません(略)
New Hollywoodについてはそこらへんの映画に関する事典や最近の英語の研究書にのっているようなあたりさわりのないことしか話していません。
(略)
なお、私は本職はシェイクスピア研究者ですが(とはいえ私はシェイクスピア映画について日本語と英語で査読論文を出していますし、この間もシェイクスピアと映画について学会発表したばかりなので、インフルエンサーではなく映画についての論文も書いている研究者です)
(略)ヘイズコードに縛られなくなったためにNew Hollywoodが発達したということが映画史的には大きいので、(注 セックスと暴力の描写が)主要な特徴のひとつです。New Hollywoodを扱ったたいていの本にはそういうことが書いてありますし、一般向けの事典にもそう書いてあります。
ここでは、北村先生がご自分の主張の証拠として提示した、Annette KuhnとGuy Westwellによる A Dictionary of Film Studies (2 ed.) (オックスフォード大学出版)を取り上げます。
ただし、前回と同様に、人文系の常識にもとづく不都合な証拠の隠し方として、ここでは2種類の方法に注目します。
A 一部分だけ引用し、自分の要約を加えて、自分の主張の根拠にする。
B 一部分すら引用できない証拠は無視する。
「A Dictionary of Film Studies」における不都合な証拠の隠し方
北村先生による主張の確認
証拠の具体的な隠し方を説明する前に、この証拠に基づく北村先生による主張を引用します。
この認識は後の映画批評でも完全に引き継がれています。英語のNew Hollywood入門的な本の最初のほうにも書いてありますし、標準的な事典類にもそう書いてあります。たとえばオクスフォード映画事典(オンライン版)の"New Hollywood"の項目では、New Hollywoodの成立の一因として"the demise of the Production Code and the introduction of a rating system that permitted films to depict sex, violence, and drug use."「プロダクションコードの終焉と、映画がセックス、暴力、ドラッグの使用を描くことを可能にしたレイティングシステムの導入」をあげています。
英語での書名がA Dictionary of Film Studiesであり、かつ北村先生が示した題名である「オクスフォード映画事典」が普及した翻訳書名と確認できなかったので、以降では直訳である映画学辞典と書きます。
今回の内容をまとめて3行で
北村先生の主張は、「セックス、暴力、ドラッグの使用を描くことを可能にしたレイティングシステムが導入されたので、New Hollywoodの特徴があからさまな性描写、暴力描写になるのは当然で映画学辞典にもそう書いてある。」
実際には、レイティングシステムの導入は、同時期のすべての映画に適用されるので、New Hollywoodの特徴になり得ない(New Hollywoodではない同時期の映画群の特徴にもなり、区別できない)。
北村先生の主張は、引用箇所の文単位、段落単位のどちらで検証しても、映画学辞典に書いていない。
余談 日本語版ウィキペディア「アメリカン・ニューシネマ」における記述
日本語版ウィキペディア「アメリカン・ニューシネマ」にも同じ書籍を根拠とした同様の記述があります。これによると、北村先生が示した証拠は確からしく見えます。(これも不都合な証拠を隠した主張であることを後で示します。)
こうした日本における定義で参照されるアメリカの「ニューハリウッド」について、英語圏の映画研究においても、おおむね同様の定義が行われている。オックスフォード大学出版局の『映画学事典』では、「ニュー・ハリウッド」が、社会に反旗を翻す登場人物やハッピーエンドの拒否、プロダクション・コード(ヘイズ・コード)の本格的な解体によって可能になった性・暴力・麻薬などの露骨な映像描写によって特徴づけられる、と指摘している。
B 一部分すら引用できない証拠は無視する
まず、北村先生が根拠として提示した映画学辞典において、New Hollywoodの定義には、「あからさまな暴力や性表現」に類する記述が皆無であることを確認します。
映画学辞典は、いわゆる辞書のように、冒頭でNew Hollywood (post-classical Hollywood)の定義を2つ示しています。理由は不明ながら、先生はリンクしていませんが、1つ目の定義はネット上で閲覧できます。(2つある定義のもう1つと、以後の説明文の閲覧は有料ですが、検証のために引用します)
1 Hollywood cinema from the mid to late 1960s through to the mid to late 1970s, especially films by a new generation of directors that exploit economic uncertainty in the film industry and reflect political and cultural conflict in the culture at large.
(注 ここより後は無料で閲覧できない)
2 Hollywood film production from the late 1970s to the present day.
(参考訳)
1 1960年代中盤-後半から1970年代中盤-後半にかけてのハリウッド映画で、特に映画産業における経済的不確かさに乗じて、一般の文化における政治的文化的摩擦を反映した新世代の監督による映画。
2 1970年代後半から現在までのハリウッド映画。
参考まで、第1版でも1つ目の定義は同じになっていることが、無料で確認できます。
北村先生は1960年代の映画『俺たちに明日はない』をNew Hollywoodだと断言しています。このため、1960年代の映画がNew Hollywoodから除外される2つ目の定義は今回の議論の対象外です。そして、1つ目の定義には「あからさまな性描写、暴力描写が主な特徴」に少しでもかかわるような説明はありません。ということで、不都合な証拠として、New Hollywoodの定義文は、北村先生によって隠蔽されました。では、なぜこの不都合な書籍を根拠として提示したのでしょうか?
A 一部分だけ引用し、自分の要約を加えて、自分の主張の根拠にする
北村先生がこの書籍を根拠として提示した理由は、先生ご本人しかわかりませんが、推測するなら、「あからさまな性描写、暴力描写」にかかわる単語が登場しているからかもしれません。しかし、かかわる単語が出てくるだけでは根拠にならないことを3段階で説明します。まず、北村先生の主張には論理的飛躍があることを説明し、次に引用部分を含む一文は、北村先生の主張と整合しないことを示します。最後に引用部分を含む段落まるごとの文脈を踏まえても北村先生の主張の根拠にならないことを明確にします。あわせて、日本語版ウィキペディア「アメリカン・ニューシネマ」における記述が根拠となる文献に基づいていないことも指摘します。
論理的な飛躍
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北村先生の主張では、「あからさまな性描写、暴力描写」(以下では「描写」と省略)を禁止していたプロダクションコード(以下、「コード」と省略)が廃止され、「描写」を可能にしたレイティングシステム(以下、「システム」と省略)が導入された、だからNew Hollywoodは成立した、と説明していますが、論理的な飛躍があるため、一般にはその主張は成り立ちません。飛躍しているのは次の2点です。
(飛躍1) 「描写」は可能になっただけで、義務ではないため、「描写」が使われるとは限らない。
(飛躍2) 「コード」廃止、「システム」導入以後の映画は、New Hollywood とそれ以外の2種類ある。
(飛躍1) については、極端な世界線を考えると論理的な飛躍が明確になります。可能になった「描写」を一切使わずにすべての映画が作られたと仮定します。この仮定は、「コード」廃止、「システム」導入以後に成り立ちます。このとき、どの映画にもその「描写」は含まれないので、その時期に作られた映画(当然 New Hollywoodの映画も含まれます)にその描写があるという特徴を持つことはあり得ません。
(飛躍2) について、「コード」廃止、「システム」導入が New Hollywoodとそれ以外の(同時期の)映画のどちらにも適用されることが、論理的飛躍を引き起こす理由です。何か別の条件により、New Hollywood(またはNew Hollywoodでない映画)の特徴が限定されない限り、「コード」廃止、「システム」導入による影響はどちらの映画にも等しくなければなりません。無条件下でNew Hollywoodだけに影響し、New Hollywoodの特徴になることはありません。
また、(飛躍2) について、New Hollywood以外の映画で「描写」が使われた実例があることも、この飛躍が事実をとらえていないことの証拠です。北村先生が引用した別の文献である、タランティーノ監督の書籍「Cinema Speculation」にNew Hollywoodでない映画の「描写」などにうんざりしていたという記述があることは、以前説明しました。この事実は「描写」がNew Hollywoodの特徴でないことを示しています。
(略)ヘイズコードに縛られなくなったためにNew Hollywoodが発達したということが映画史的には大きいので、主要な特徴のひとつです。
このように北村先生の主張は論理的に飛躍しているため、成り立ちません。
(仮想的)反論
ここまでで、北村先生の主張は論理的に飛躍した議論をもとにしているので成り立たないことを確認しました。一方で、「説明のために、簡略化された引用になっているだけで、簡略化された部分だけを取り上げて、北村先生の主張を批判するこの文章こそ、「不都合な証拠を隠している」」という反論もあるでしょう。確かに、引用していない部分に論理的飛躍を補う説明が示されているかもしれません。そこで、北村先生が引用した部分文を含む一文全体、さらに段落全体を引用し、改めて北村先生の主張を検証します。
引用部分を含む一文にもとづく検証
引用された部分を含む一文全体を、映画学辞典から引用します。
(引用開始)
A marker of more permissive social attitudes—and of the fragmentation of Hollywood's audience during this period—is the demise of the Production Code and the introduction of a rating system that permitted films to depict sex, violence, and drug use.
(参考訳)プロダクションコードの廃止と、性、暴力、薬物使用を描写することを許可するレーティングシステムの導入は、より寛容な社会的態度(と、この時期におけるハリウッド映画観客の細分化)を指し示しています。
英語的な表現で書かれた一文のため、理解するには困難が伴いますが、New Hollywoodの成立の一因が主語でないことは確かです。この文を倒置表現として見ると、プロダクションコードの廃止と、性、暴力、薬物使用を描写することを許可するレーティングシステムの導入が、この時期におけるハリウッド映画観客の細分化(家族向け映画を好む層と大人向け映画を好む層の二極化)とより寛容な社会的態度(これまでの映画が描けなかった内容の受容)を表している、と解釈できます。そして、この文はNew Hollywoodやその成立の一因について説明しているものではなく、その時代の(「描写」を含まない家族向け映画を含む)映画全体の幅広さに言及しているものです。
引用部分を含む段落にもとづく検証
引用された部分の前後まで読めば、文献に記述された「寛容な態度と観客の細分化の指標」と北村先生がおっしゃる「New Hollywoodの成立の一因」が同一であると解釈できるのでしょうか。確認のために第1パラグラフを引用します。
Hollywood found itself in the doldrums during the late 1960s and early 1970s as a result of upheavals triggered by the Paramount Decrees, falling cinema admissions, and competition from television. Cultural and political turmoil—including the civil rights struggle, feminist activism, anti-Vietnam war protests, and countercultural withdrawal—also influenced the sensibilities of filmmakers and audiences. Bonnie and Clyde (Arthur Penn, 1967) and Easy Rider (Dennis Hopper, 1969) are important films in marking Hollywood's new direction: both achieved box-office success by disregarding stylistic convention, showing characters rebelling against the mainstream, refusing happy endings, and harnessing the sensationalism of the exploitation film. During this period, a new generation of creative talent entered the industry, including such directors as Francis Ford Coppola, Martin Scorsese, William Friedkin, Paul Schrader, and Terrence Malick. Many of these had served apprenticeships in the exploitation sector, but had been to film school and were well versed in film history and non-US cinemas. These directors, along with rising actors such as Robert De Niro, Al Pacino, Warren Beatty, and Jane Fonda, brought an irreverent sensibility that appealed to the all-important youth audience. A political dimension has been identified in the way these filmmakers reworked staple genres such as the western and the musical, as well as seeking out new subgenres and cycles such as the road movie and the buddy film. A marker of more permissive social attitudes—and of the fragmentation of Hollywood's audience during this period—is the demise of the Production Code and the introduction of a rating system that permitted films to depict sex, violence, and drug use. Implicit in the term post-classical Hollywood is the suggestion that industrial and cultural change impacted on film style, and in particular on the putative breakdown of the classical Hollywood style and a flirtation with modernist aesthetic regimes associated with the Nouvelle Vague and European art cinema. Other terms used to describe this tendency include American New Wave and Hollywood Renaissance: terms implying a celebration of Hollywood's commitment to politically and aesthetically adventurous filmmaking at this time, as against the avowed commercialism of the studio era. Michael Cimino's Heaven's Gate (1980) and Francis Ford Coppola’s One from the Heart (1982), however, proved unmitigated failures at the box office, and these films are often regarded as marking of the end of this period.
(参考訳 おおまかな区切りで原文にない改行を入れています)
1960年代後半から1970年代初頭にかけて、いわゆるパラマウント判決によって引き起こされた混乱、映画館観客数の減少、テレビとの競争の結果として、ハリウッドは低迷しました。公民権闘争、フェミニスト活動、反ベトナム戦争としての抗議、反文化的撤退などの文化的および政治的混乱は、映画製作者や聴衆の感性にも影響を与えました。
『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン監督、1967年)と『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー監督、1969年)は、ハリウッドの新しい方向性を指し示す上で重要な映画です。映画様式における慣習の無視、主流に反抗した登場人物の提示、ハッピーエンドの拒否、B級映画(*注)にあるセンセーショナリズムの利用、これらによってこの2つの映画は興行的な成功を収めました。
この期間中、フランシス・フォード・コッポラ、マーティン・スコセッシ、ウィリアム・フリードキン、ポール・シュレイダー、テレンス・マリックなどの監督を含む、新世代の創造的な才能が映画業界に参入しました。監督である彼らの多くは、B級映画部門で見習いをしていましたが、映画学校に通っていて、映画史とアメリカ以外の映画に精通していました。これらの監督は、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ウォーレン・ビーティ、ジェーン・フォンダなどの俳優とともに、非常に重要な若い聴衆にアピールする非礼な感性をもたらしました。これらの映画製作者が、西部劇やミュージカルといった定番のジャンルを再構築し、ロードムービーやバディ映画といった新しいサブジャンルやサイクルを探求する中に、政治的な側面が見出されています。
プロダクションコードの廃止と、性、暴力、薬物使用を描写することを許可するレーティングシステムの導入は、より寛容な社会的態度(と、この時期におけるハリウッド映画観客層の細分化)を指し示しています。
(注 この辞典で New Hollywood と並んで括弧つきの見出し語になっている)「古典的ハリウッド以後 (post-classical Hollywood)」という用語が暗黙的に示唆しているのは、産業的および文化的変化が映画の様式に影響を与えたということです。特にそれまでのハリウッドの様式には目もくれず、ヌーヴェルヴァーグやヨーロッパのアートシネマに関連するモダニスト美学の枠組に夢中でした。
この傾向を表すのに使われる他の用語には、アメリカンニューウェーブとハリウッドルネッサンスがあります。これらの用語は、この時点において政治的および審美的に冒険的な映画製作に取り組んだハリウッドへの称賛を意味します。これ以前にスタジオ主導で映画製作されていたときに広く認められていた商業主義とは対照的でした。
しかし、マイケル・チミノ監督の天国の門(1980年)とフランシス・フォード・コッポラ監督のワン・フロム・ザ・ハート(1982年)は、興行収入で完全に失敗しました。これらの映画は、この時代(New Hollywood)の終わりの印と見なされることがよくあります。
B級映画(*注) exploitation movie
exploitation movie とは、特定のテーマや内容を利用して利益を上げることを目的とした映画を指す。具体的には、低予算で作られ、セクシーな要素や暴力、ショッキングな内容を強調した映画が多く含まれる。これらの映画は、一般的に大衆の好奇心を引きつけるために、センセーショナルな要素を利用することを特徴とする。
最初の2文は時代背景を説明しています。次の2文はNew Hollywoodのさきがけとなった2本の映画の特徴を言及しています。この特徴はこの2本の映画に特有であり、New Hollywood全体の特徴であるとはどこにも書いていません。続く4文はNew Hollywoodの監督について説明しています。そのあとの1文が北村先生によって引用された部分を含む文です。最後の前の3文は、New Hollywoodの類義語に関するものです。そして、最後の1文はNew Hollywoodの終わりに関する説明です。
この段落ではNew Hollywoodという言葉すら現れていないことからわかる通り、New Hollywoodの成立の一因として何かを取り上げる段落では決してありません。
北村先生がNew Hollywoodの成立の一因として取り上げた「プロダクションコードの終焉と、映画がセックス、暴力、ドラッグの使用を描くことを可能にしたレイティングシステムの導入」は、「寛容な態度と観客の細分化の指標」というだけで、前後の文脈を考慮しても、「New Hollywoodの成立の一因」と読むことは不可能です。
論理的な飛躍(再び)
先ほど(飛躍1) 、(飛躍2) という、北村先生による論理的飛躍を示しましたが、
(飛躍1)「描写」は可能になっただけで、義務ではないため、「描写」が使われるとは限らない。
(飛躍2)「コード」廃止、「システム」導入以後の映画は、New Hollywoodとそれ以外の2種類ある。
(飛躍1) については、観客の細分化の指標となるような、映画に描写の幅があることをこの文は指摘しているので、この論理的飛躍を補っていると言ってよいでしょう。ですが、(飛躍2)については、「コード」廃止、「システム」導入以後の映画について、New Hollywoodだけに限定した説明はなされておらず、それ以外の映画との区別が皆無です。このため、(飛躍2)については、この段落全体を考慮しても補われていないことが明らかです。つまり、「コード」廃止、「システム」導入によって「描写」が可能になったことによりその「描写」が特徴になるとすれば、New Hollywoodと、同時期のNew Hollywoodでない映画の両方についての特徴にならざるを得ません。区別する説明は、定義における「新世代の監督による映画」のみです。「新世代の監督」だけがその「描写」を使ったという説明がないので、この定義においては、その「描写」がNew Hollywoodだけの特徴になることは不可能です。
余談 日本語版ウィキペディア「アメリカン・ニューシネマ」の記述の検証
上で引用したように「英語圏の映画研究においても、おおむね同様の定義が行われている。」というアメリカン・ニューシネマ 日本語版ウィキペディアの記述は、映画学辞典に示された定義文が「描写」に言及しておらず、ほかの文献が示されていないので明確に捏造です。示された文献における「ニュー・ハリウッド」の項目で説明されているのは、引用からわかるように、登場人物や終わり方については「俺たちに明日はない」と「イージー・ライダー」に限定された特徴でしか説明されておらず、「描写」でNew Hollywoodが特徴づけられるという説明も存在しません。
この記述は、北村先生の反論から1か月ほど後に加えられており、その反論をもとに記述されたとみることができます。ウィキペディアに捏造が掲載されるという具体的な事例が、ウィキペディアを代表してメディア出演する北村先生が発端で起きたと考えられることは、人文系関係者による発言の信用度を理解する上で参考になる、公共の利益になる事実の指摘です。
まとめ
東京大学卒、ロンドン大博士で武蔵大学人文学部教授である北村紗衣先生がご自身の(事実でない)主張を正しく見せかけるために、不都合な証拠を隠した実例を示しました。「映画批評ではあたりまえの位置づけであって「相当な無理がある」というようなものでは全くありません」と断言した主張に対して、文献の定義文を隠蔽し、(文全体では主張とは無関係だが)文の一部だけなら関連するように見せかけられる部分を切り取るという「相当な無理がある」手段を(前回示したのと同様に今回も)用いていたことが明確になりました。
北村先生の反論「須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について」に基づけば、ブリタニカ百科事典(オンライン版)の"History of Film"の項目と『世界大百科事典』オンライン版の「ニュー・シネマ」の項目、これら残りの2項目が確認できれば、北村先生が(部分的な文しかないとはいえ)引用した証拠すべてを検証したことになります。これらの中に北村先生の主張を成り立たせる証拠があるでしょうか。「ヘイズコードに縛られなくなったためにNew Hollywoodが発達したということが映画史的には大きいので」と北村先生は説明しています。しかし今回説明したように、コードに縛られなくなったことによりNew Hollywoodだけを選択的に発達させることは、「描写」を用いてNew Hollywoodを定義しない限り不可能です。しかし、そう定義すると前回見てきたタランティーノ監督の著書が間違いになります。この矛盾を超越する何かが残りの2項目にあるのでしょうか。