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ここが変だよ日本の中国語

私が中国語を話すようになってからもう20年近く経つが、今思い返すと日本で受けた中国語教育や日本のメディアに出てくる中国語には幾つかおかしなところがあるなと思うので、それを列挙していく。

中国語には濁音がない?

これはその通りなのだが、この事実から生じた誤解が日本の中国語界には未だにはびこっている。
それは中国語を何らかの理由でカタカナ表記しようとした時、無理やり濁音を用いないで表記しようとする習慣のことである。

例:

習近平=シーチンピン
毛沢東=マオツォートン
江沢民=チアンツォーミン
章子怡=チャンツィイー
再見=ツァイチェン
対不起=トゥイプーチ
鄭州=チョンチョウ

こうやって例を挙げるときりがないが、とにかく意地でも濁音は使わないぞという意気込みは伝わってくる。
しかしぶっちゃけ、これはどれも中国人には全く通じないだろう。

中国語には濁音がない。
それは正しいが、日本語の濁音と静音に類する発音の区別はある。
それは無気音(不送気)と有気音(送気)の区別である。

具体的には発音時のブレスの有無で透き通った音と少しくぐもった音を使い分けるもので、発声上明確な違いがある。

それをカタカナで表記する時に、「中国語には濁音がない」からと全て静音と破裂音で表記してしまうと、中国人からすると全く違う単語に聞こえてしまうのだ。

例えば、心配することを中国語では「担心」というが、この単語の表記を既存のカタカナ表記法に従ってタンシンとしてしまうと、中国人にはこれが「貪心」と聞こえてしまい、強欲という意味だと聞き取ってしまうだろう。

これでは「我担心(私は心配だ)」と言うつもりが、「私は強欲だ」と言ってしまうことになる。

ではどの様に表記するべきか。
これには中国語のアルファベット表記を参考にするのが良いと思う。
実は中国語にも日本語のローマ字表記にあたる拼音表記という物がある。

例えば先程の「担心」を拼音で表記すると「dan xin」となり、「貪心」は「tan xin」となる。

さあ、もう皆さんお気づきであろう。
担心はダンシンと書いたほうがより現地の発音に近くなるのである。
もちろんこれを日本語の濁音で発音してしまっては、厳密に言えば中国語の無気音の音とは違ったものになる。
しかし、「dan xin」をタンシンと発音するよりは、よほどダンシンと言う方が伝わりやすいのだ。

というわけで、最後に上述の表記例を私ならどう表記するかを書いてみようと思う。

習近平(Xi Jinping)=シージンピン
毛沢東(Mao Zedong)=マオゼェドン
江沢民(Jiang Zemin)=ジャンゼェミン
章子怡(Zhang Ziyi)=ジャンズーイー
再見(zai jian)=ザイジエン
対不起(dui bu qi)=ドゥイブチィ
鄭州(zheng zhou)=ジョンジョウ

中国語には過去形はない?

これも結論から言ってしまう。
中国語には日本語のような過去形はない。

それなのに日本の中国語教育では「了」の文法を教える時、何故かこれを使うと過去形になると嘘を教えるのだ。

中国語の「了」の用法は二つしかない。
それは動詞の直後につく動作が完了したことを表す「了」だ。
そしてもう一つは文章の最後につく、状況がその様に変化したことを表す「了」だ。

例えば、「下了雨」という中国語は、雨が降るという動作を表す動詞である「下」の後に「了」がついているので、今はその動作が完了している、つまり雨はすでに上がっていることを表している。
しかしこれが「下雨了」となると、文末に「了」がついているため、(雨が降っていなかった状況から)雨が降る「下雨」という状態に状況が変化したことを示すので、今は逆に雨が降っていることを表している。

ここに日本語の過去形にあたる文法が入る余地があるだろうか(反語)。

この様に中国語には過去形が存在していないのに、中国語を学ぶ多くの日本人は「了」を使うと過去形になると勘違いしている。
なので、例えば
「上海に行ってきた」
と言いたい時に
「我去上海了」
と言ってしまうような間違いを犯してしまうことがある。
これでは上海に行くように状況が変化した事になってしまうので、本来別のところに行くはずだった予定が上海に行くことになったという意味になり、しかもまだ上海に行っていない可能性が高い。

これでは全然伝えたい意図と違ってきてしまい、中国人の頭は「???」となるであろう。

では「上海に行ってきた」という表現を中国語でしたい場合はどうすればいいのか?
日本語の行くにあたる動詞は中国語では「去」である。
ならば「我去了上海」と動詞のすぐ後ろに「了」を入れれば上海に行ってきたことになるであろうか。
答えはイエスである。

しかし「了」をつけると過去形になると思っている日本人はこの二つの「了」の使い分けが分かっていないので、「了」を置く位置が曖昧になり、上記のような間違いを犯しがちなのである。

それと「了」はまた別に、話している内容が過去の出来事である場合を表現したい時は、経験を表す「過」を用いる方法もある。

例えば、「我去過上海」と言えば、上海に言った経験があるという意味になり、ここからこれが過去の話であることを推測することが出来るようになるのだ。

そして、更に言えば「了」も「過」も使わない過去の出来事もある。

例えば、
「日本にいる時はよくお寿司を食べたよ」
という日本語を中国語にしたい場合、これを動作の完了である「了」を用いて
「我在日本的時候経常吃了寿司」
と言ってしまうとどうなるか。

こうなると意味は「日本にいる時はよくお寿司を食べ終えるよ」といったものになってしまい意味不明なものになる。

では「我在日本的時候経常吃過寿司」と言えばどうか。
これだと意味は「日本にいる時はよくお寿司を食べたことがあるよ」となってしまい、微妙に何が言いたいのかわからなくなってしまう。

じゃあどうすればいいんだと。
答えは簡単である。
「了」も「過」も使わなければいいのだ。

「我在日本的時候経常吃寿司」

と書けば、日本にいる時という条件下ではお寿司をよく食べることという意味になるので、過去に日本にいた時によくお寿司を食べたことも、これから日本に帰った後もよくお寿司を食べることも両方伝わる。

そして中国人はこれを過去の出来事として、過去か未来かどちらか一方に限定して話すことに拘らない。
日本にいる時はよくお寿司を食べるのは分かったのだから、それが過去の出来事か未来の出来事かはどうでもいいのだ。

日本人の方が拘り過ぎなのである。

この様に中国語の過去形は、はっきりとした過去形を表す文法があるわけではなく、その文章の内容から時系列をその都度推測するものなのである。

この事を念頭に、「了」を無理やり日本語の過去形だなどと思い込むのはやめた方がいい。

それが中国語を流暢に話せるようになる為の近道である。

中国語は英語に似てる?文法は同じ?

さあ、これも結論から言ってしまうぞ。
全然違うよ〇〇野郎!

SVがどうとかそういう専門的な話は抜きにして簡単に解説する。

中国語の文法の一番基本的な構造は、動詞を挟んで前の名詞が動作を行う人、後ろが動作を受ける人。これだ。

例えば、「我愛你」なら愛の前にあるのが我で後ろにあるのが你なので、愛する方が私で愛されている方が貴方になる。

もうこの次点で英語とはだいぶ違う。
不規則動詞とか過去分詞とかは存在しない。

語順も、時間や場所を示す言葉の配置が英語とは全く違う。

例えば、「明日の朝9時に校門で会おう」という日本語を中国語にした場合
「我們明天早上九点在校門見面」
となる。
この語順はほぼ日本語と同じだ。
じゃあ中国語は日本語と似たようなものなのか?

全然違うでしょう?

たまたま一部の語順が似ることなどどの言語でもあることだ。
それを以って英語と同じ等と言うのは乱暴過ぎる。

元々中国とイギリスは全く違う文化圏だ。
改めて言う必要のないぐらい当たり前のことだ。

なのに中国語と英語は似ているなんて言う人がいるから、中国語を学習する日本人が混乱してしまい、酷い時は中国語を一旦英語に置き換えて理解しようとする人まで出る始末だ(実話)。

もう一度言う、中国語と英語は全く違う。
中国語は中国語として真っ白な状態で学ぶべきだ。
英語と似たようなものとして学習すれば混乱するだけだ。

以上、他にも思いついたことがあれば順次追加して行こうと思う。

※この文中に出てくる漢字は、読み易さを考慮して全て日本の字体に統一しています。







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