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自分がいずれ死ぬことについてどう思ってます?

人類が誕生してから現在まで、この世に生を受けた人間の総数が1080億に達したそうである。

その内現在生きている人間が70億人とすると、累計の死者数は1010億人ということになる。
つまり、全人類の93%は死んでいるということになる。

そして人間の寿命は長くても100歳程度である。
150歳になってまで生きている側の7%に属し続けている人間など実生活には存在したことがないのだ。

この事実から、人は自分も含めて誰もがいずれ死ぬと考えている。
私も貴方も可愛いあの子も元気に走り回る子供もいずれ皆死ぬのだ。

このことに意義を唱える者は皆無だろう。
「貴方はいずれ死にますか?」
と聞かれれば、皆異口同音に「そうだ」と答えるに違いない。

しかし、この避けがたい死に対する人々の反応は様々である。

知識では死ぬことを理解していても実感はなく、死を意識せず暮らしている者
死ぬことについて考えると恐怖を感じて日常生活に支障をきたす者(タナトフォビア/死恐怖症)
意識的に死について考えずに目を逸らす者
厭世感から早くお迎えが来ないかと願う者
人生が辛いのでそこから逃れるためにいっそ死のうと自殺を考えている者

行き着く先は一つなのに、その終着点に関する考え方、スタンスは十人十色だ。

私はというと、死について考えると腹が立つタイプだ。
他に同じ意見の人に会ったことがないので少ないタイプなのかもしれないが(そもそも自分が死ぬことについてどう思う?など他人に聞く機会が少ないが)、とにかくそれについて考えるとフッと怒りが湧いてくるのである。

それは恐らく勝手に生まれたのに勝手に死ぬことが運命づけられている理不尽さに腹が立つのであろう。

夜中に布団でまどろんでいる時、通勤時に電車に揺られている時、風呂でくつろいでいる時、時と場所に関係なくふといきなり死について意識が向き、腹が立つことがある。

しかし、いくら腹を立ててもやはり私もいずれ死ぬのだ。
40歳を過ぎて健康に自信があるわけでもないし、何なら死はもうすぐそばまでやってきているかもしれない。

ならば、そろそろ死を受け入れる精神活動を行い始めたほうがいいだろう。

死の間際まで理不尽に腹を立てて事切れるのも私らしいかもしれないが、やはり死に至る過程の精神衛生を考えると、ある程度納得してから死んだほうがいいに決まっているのだ。

しかし、これは中々至難の業である。
なんせ私はどうにも信仰と相性が悪いのだ。

人類の歴史上、死の担当は宗教が担ってきた。

多くの人々は死を恐れ、死からの救済を求めた。
だがそれに対して架空の神様では実際に不老不死を与えることなどできるわけがなく、架空の死後の世界を約束して人々の恐怖心を希釈させようとした。

人々は半信半疑ながらもそれを受け入れ、中には死後の世界のために死ぬなどという本末顛倒を犯しながらも、架空の死後の世界にどんどん肉付けしていき、最終的にはある程度の精度を持った世界観ができあがった。

だがそれも科学技術が発達するまでの幻想だった。

科学は検証と再現性を武器に、様々な事象から神秘のベールを引っ剥がし、人類が世界を正確に把握する手助けをした。

それは人類の現世での生活を豊かにしたが、ついでに死後の世界の神秘性も破壊してしまった。

それでも天国を信じている信仰心に溢れた敬虔な方もいらっしゃるが、どうやら私には無理だ。

いくらありがたいお話を聞いても全て空虚に感じてしまう。
どうしても宗教よりは科学の方に理を感じてしまうのだ。

ではそんな私はどの様に死に向き合うべきなのだろうか。

人が死を受け入れるには大きくわけて2つのパターンがあると思う。

それは、やりたいことをやりきった後での満足感の中での死、もう一つは生きることに絶望した上での逃避のための死だ。

満足の死はハードルが高い。
まず人生に満足するほど何かを成し遂げることが難しいし、上手くいっても必ずしも満足して死ねるというわけでもないからだ。
世の成功者達も、成功したが故に色々なものを持ちすぎてしまい、死ぬのが惜しくなってしまう人が多い。
歴史を見ればどれほど多くの権力者が不老不死を求めたことが。
勝ち組であればあるほど恐れる気持ちが強くなるのだ。

ではもう一方の絶望の死のハードルはどうか。
これもかなりハードルが高い。
まず死んだほうがマシだと思えるような生き地獄を味わわないといけない。
そんな思いはしたくないし、それにそこまでの絶望は意図的にプロデュースできるものではない。

ならどうしたらいいか。
それは小さな満足に甘んじるか、持たざる者になるかであろう。
いや、別にどちらかに偏る必要もなく、両方実践しても良いと思う。

自分の人生、ここらへんまでやれれば上々だろうという小さな目標を掲げて、そして失っても惜しくない程度のものに囲まれて生きる。

壮大な欲からは離れて、その日その日の営みを慈しみ、様々な執着から離れればかなり気楽に逝ける気はする。

あれ?
えっと・・・これってなんかどこかで聞いたことがあるぞ。

これって仏教の在家の生き方では・・・?

なるほど!
やはり宗教というのはよくできているな。
今更だが、ちょっと仏教について調べてみてもいいかもしれない。

それが私の終活の第一歩となるのだろう。



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