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(私のエピソード集・18) 餅つきの日

我が家の〈餅つきの会〉は、2018年30日、53回目、総勢30人で名残惜しみつつ、最後となった。夫のガンの病が重いことがわかり、思い切って終りとしたのだ。私の友人の絵本作家と、画家と編集者も加わって、後に絵本に残してくれた。

その日、朝7時過ぎ、義姉が庭のかまどに火を燃し始める。地面を深く掘り、三方をアルミ製の廃棄雨戸で囲ったかまどで、大バケツの水を置き、井戸も傍らにあり、70坪ほどの庭で、火事対策は万全に。

客は9時前後から次々やってくる。昼過ぎまでかけて、16うすつきながら、庭で小中学生が、七輪の火で焼肉当番をし、大人たちは餅つきと、手返しを順にこなす。もち米をふかす蒸籠(せいろ)に湯気が上がるまで、火の番も子どもたちが手伝ってくれる。

庭で焼肉・ネギ・焼き芋を食べたり、あん餅作りを手伝って、ついでに口に入れたり、畑のダイコンでおろし餅にしたり、草餅のきな粉餅も食べたり、キンカンの実を木から取ってつまんだり、と食べ放題だ。        それで、昼は茶の間で、私が用意した〈うどん・かき揚げ〉その他の和食を、手の空いた人から順に、軽く食事することになる。

午後は若い親子たちが、近くの川原のグラウンドでサッカーをして、思いきり遊びまわる。3時に戻ると〈特製ミルクかん〉と、イチゴやリンゴやお菓子をつまみ、ご馳走さまとなる。

のし餅、鏡餅、あん餅、ダイコン数本、ユズ、その他のみやげ物を重たいほど持って解散。4時には我が家の3人のみとなって、すべてが終了する。

裏方としての準備は、春のヨモギ摘みに始まり、軽く茹でて冷凍しておく。12月に入ると、私の郷里の岡山からもち米40キロを取り寄せる。義姉はもろ箱を洗い、焚き木の用意をし、キビや小豆、きな粉、片栗粉を揃え、お持ち帰り用と近所の配布用に、菓子箱を20個余り準備する。

前日に〈あんこ〉を練って、200個ほど丸めておく。お持たせ用の柚子蜂蜜やキンカンの甘煮など、作ってくれるのは5歳年上の義姉で、人を喜ばせるのが大好きで、一年中、ジャムや煮物や干し物を作って、私の子たちや、一族に配ってくれる。

私は、庭での餅つきにはノータッチで、来客の5~6台の駐車場確保や、昼食の準備と、もっぱら台所担当だ。庭での焼肉用に何キロ肉を頼むか、前日の下準備などに専念する。

そもそもの始まりは、深大寺近くのアパートに住んでいた私が、夫と結婚した春のこと。彼の方が私のアパートに移ってきたのだが、満州からの引揚げ者で、父親を引揚げ時に亡くした苦学生ゆえ、家財道具は何もなかった。

博士号を得て、大学の助手になりたてで、あるのは本のたぐいだけ。そこへ唯一つ、山梨の本家に頼んであった、大きな〈臼と杵〉が届いたのだ。

彼いわく「男は結婚したら、鍋や釜と同じく、臼と杵は持つものと信じこんでた」と。その時点では、置き場は考えもしなかったそうで、重すぎてアパートの2階へは運べず、階段下の物置に置かせてもらった。

その年の暮れに、アパートの人たちと第一回目の餅つき会をした。手順を知らない人ばかりで、妙な失敗作が出来上がって、大笑いになっていた。

夫はその時の楽しさが忘れられず、翌年八王子へ引っ越してからも、毎年餅つきの会をやろうと言い出した。準備はほぼすべて義姉と私になるが、年に一回だからと、賛成したら、実際は予想以上に大変! でも、高揚感と達成感、喜びも充分にあった。

義妹一家に、夫の同僚と教え子たち、時に英米の友人たちも加わり、最大人数は42人の年もあった。近年では、ほぼ30人前後で、長岡在の次男一家は、医師の身で年末に戻れないことも多いが、彼の高校時代の友人たち一家ふた組が、毎年参加して助けてくれた。

気がかりの天候は、夫が大きなテントを買いこみ、雨の日も雪の日さえ、テントを張って凌いできた。

私は最初の20数年、献立が悩みだった。都心から取り寄せしたり、若い人向けに、洋風物を気張ったりしたが、ある時、ふだん作っている田舎料理が、餅つきには似合うと気づいて、気がラクになった。

2014年暮れに107歳で亡くなった義母は、90歳半ばまで、座敷の上がり口の、飯台のそばに正座していた。つきあがった餅を、飯台に受け取り、もろ箱に詰めたり、あん餅用にちぎって皆に手渡したり、実に生き生きとさばいてくれていた。

この義母が80代頃のこの日、忘れられない出来事が起こった。ある教授一家3人が初参加していたが、小2のその息子は、家中を駆け抜け、庭の人ごみの間も走り回っていた。義母は「お餅は食べ物だから、ほこりを立てないでね」と声をかけていたが、その子はまったく聞いている気配がなかった。

ふいに義母の悲鳴が聞こえ、私が駆けつけてみると、義母がへたりこんでいる。見ると、ふすまの向こうに広げた、1m四方ほどの〈のし餅〉の上に、黒い小さな足跡がいくつも残っていた。あの子だ! 義母は「仏様にお供えする食べ物なのに」と、半泣きしながら手当てを始めていた。

小学生がお餅を踏み歩くなど、後にも先にも一度もないことだった。何より驚いたのは、その子の両親が、息子を注意するでもなく、何の反応も対応もしなかったことだ。

餅つきが終わり、夫と教授は、座敷で囲碁をうち始めた。私がお茶を運んでいくと、教授が子育ての教育方針を、語っているところだった。「子どもは自然に任せている。教えるとか手本を見せるとか、注意を与えるなど一切しない。妻にもさせない」と、強い口調で言い切った。

夫と私は驚いて、二人で反論したが、教授は頑として「これで通します」と言い張って、口をつぐんだ。

その後も夫と私は時折、この事を思い出しては、少年を心配した。放任にしても度が過ぎる、育児放棄と同じよ、と憤慨し合った。子どもの心に、芯となる基盤が作られず、他者との関係が、築けない気がしてならなかった。

10年後のある日、夫は少年のその後を聞かされてきた。彼は学校にも周囲の人にも馴染めず、もてあまし者で成長したが、ついに精神病院に入れられた由。ほどなく父親の教授は、定年前の60歳前後で亡くなった。何の力にもなれなかった後悔が、いつまでも残った。

53年続いたこの日には、親戚の葬儀と重なったこともあれば、私のスズメバチ被害の年は、身内だけの事もあった。それがとうとう終りとなった。

友人のかんなり まさこの絵本『おもちつき ぺったんこ』は、飯野まきの絵で、福音館書店から「こどものとも 年中向き」2020年12月号として出版され、わが家ともう一軒でのもちつきの場面が、活写されている。

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