(私のエピソード集・30)子ども3人で満州引揚げ
これは夫から聞いた話: 昭和20年、終戦直前の8月10日に、満州鉄道(=満鉄)社員に、至急の「朝鮮への疎開命令」が出て、夕方までに駅へ集まれと。 僕の父は入院中で、母は足首の手術後まもない身で、貯金を下ろしにも行けず、荷物と弁当の用意がせいいっぱいだった。
僕は8歳、姉10歳、妹はもうじき6歳だった。
僕は母に内緒で、すぐに小学校へ飛んで行き、担任の先生に「一年から貯めた貯金を返して!」と言ったんだ。毎月1円ずつ貯めたのが、30円になっているはず、今の金で6000円くらいの大金だった。先生は「疎開なら、戻ってくるだろ。預けてる方が安心だ」と言って、返してもらえなかった。あの金はどうなったのだろう?
家に帰ると、ふろしき包みをふたつ渡された。片方には貯金通帳、成績表、位牌など大事なもの、もう片方は米袋だった。僕は自分の宝物の、おやじがくれた大きな虫眼鏡と、手製のパチンコ(Y字型の木の枝にゴム紐を張って、小石を飛ばす道具)を、半ズボンのポケットに突っこんだ。
母は自分で縫った上物の着物を、たくさん持っていたが、普段着のままで、退院させた父の世話をしながら、僕らを連れて駅へ向かった。夜になって、屋根のない貨車にやっと乗りこみ、朝鮮へ向かった。列車は進んだり戻ったりしながら、ようやく平壌(ピョンヤン)に着いたのが、8月17日だった。朝鮮の人たちが大騒ぎをしていて、軍人たちから、日本が負けたことを教わり、もう二度と満鉄の社宅へは戻れないんだと、はっきりわかった。
母は疎開ならじきに戻れると思って、夏服のままで、お金もろくに持たずだったから、ものすごく不安がってた。
(ちなみに、満州国は、日本敗戦の日、13年間の存在で消滅してしまった。中国の東北部に、軍隊の力で日本の土地の3倍の広さの「満州国」を、1932年に作り、多くの日本人が移り住んで、町を作り、土地を開拓した。僕の父は、国鉄の身延線鉄道員だったが退職し、給料のよい南満州鉄道(満鉄)に受験して社員となり、単身渡った。1年後に公主嶺にある社宅に、僕らを呼び寄せ、敗戦まで父は5年、僕らは4年住んでいた。)
僕らの列車は、なんとか朝鮮南部の大田(テジョン)まで進み、1ヶ月以上足止めとなった。その間に父の病状が悪化し、入院して蜂窩織炎(ほうかしきえん)と診断され、朝鮮病院の、日本人外科医に手術だけはしてもらえたが、消毒薬その他、物資が何もかも不足のため、体調は悪化するばかりだった。
満鉄側からは、朝夕に小さな塩にぎりめし1個だけ配給された。父と母は、1個を二人で分けてたべ、もう1個は、僕らに分けてくれたが、それでも、腹が減って腹が減って、食い物のことしか頭になかった。
一度、畑のダイコンやニンジンを引き抜いたところを、持ち主に見つかったことがある。朝鮮の大柄のおじさんが、悲しそうな目で「この土地はやせていて、20年かけて、やっとこれだけ取れるようになった」と言った。たしかにニンジンは細いし、ダイコンは短く、やせていた。
「自分の手で苦労しないで、人のもの、取るのは悪いことだ」と、おじさんは言った。僕はどうしていいかわからず、ニンジンを土に戻そうとした。すると、おじさんは「それは持って行って、食べなさい」と言うと、抜いてあった全部を、僕に押しつけてくれて、「ひもじいだろう、がんばれ」とそう言ったんだ。
胸にずんときて、泣かずにはいられなかった。ぶん殴られて、取り返されて当然だったのに。すごい人だよ! それが僕の9歳の誕生日(8/31)のことだ。
母は病院へ父の手当に毎日通っていたが、そのうち日本への船が出ると知らされた。僕らだけは帰国させねば、と自分は付添いで病院へ残ることにして、母は親しくしていた、甲府へ帰るTさんに、3人を富士宮までお願い、と頼みこんだ。
Tさんには6ヶ月の赤ちゃんがいて、3人を預かるのは迷惑だったらしく、僕らは、自分たちで毎日をしのぐしかなかった。
釜山で日本へ帰る船に乗る前に、満鉄から一家族に1000円ずつ配布されたが、Tさんは自分だけもらって、知らんぷりしているので、僕が満鉄の係員にもらいに行くと、子ども3人だけでは家族ではない、と言われ、もらえなかった。
日本へ着いて、富士宮まで行く間の食べ物、飲み物、汽車賃などかかるのに、母からは1円ももらっていなくて、不安でならなかった。あの時、もっと強く訴えるべきだったと、何度も後悔した。
後で、引揚げ者は無料で列車に乗れるとわかったが、釜山の港で、兵隊たちが一度「炊き出し」をしてくれたのを食べた他は、富士宮へ着くまでの数日間、水だけは飲めたが、何も食べられなかった。
(大人になって姉と思い出話をしていた時、僕はお米を背負っていたのだから、交換するとか、生米を食べるとか、あのダイコンのおじさんに渡すとか、何かできたのに、幼すぎて、思いつけなかったね、と残念がった。)
なんとか日本に着いて、僕ら3人は、Tさんの後について、山陽本線に乗れた。ある駅で老夫婦が乗ってきて、僕らの近くで弁当を食べ始めた。浮浪児みたいに汚れている僕がじっと見ているのを、かわいそうに思ったのか、おにぎりを老人がくれようとした。
すると、Tさんが、この子らは私の子じゃありませんから、と断ってしまった。目の前に出された、うまそうなにぎり飯をひっこめられて、みじめでたまらなかった。老人夫婦も、食べにくかったのか、食べるのを止めて、にぎりめしを包んでしまった。
ただ、Tさんは甲府へ帰るはずを、僕らを富士宮へ届けるために、身延線で遠回りをしてくれたのだけは、有難かった。
満員列車で、どこで下りていいかわからず、フジネと聞こえて、3人でホームに飛び下りたら、Tさんが人混みをかきわけて、「早く乗って! その駅じゃない!」と叫んでくれた。
それで無事に富士宮まで帰れたが、ぎゅう詰めの列車のため、Tさんに別れの挨拶も、感謝の言葉も伝えられなかった。
富士宮に降り立った頃には、妹の運動靴はボロボロにちぎれて、足袋はだしだった。その上、空きっ腹で疲れ果てて、一歩も動けなくなった。通りがかりの若者が声をかけてくれて、その人におんぶされて、親戚の家にやっとたどりついた。
9月の末頃に、母が人に負ぶわれ、風呂敷に包んだ父のお骨箱を持って、戻ってきた。それきり母は寝ついてしまった。でもともかく、母子4人が帰国できたのは、ほんとに運がよかったのだ。
というのは、僕らの列車が38度線よりずっと南で、止まっていたから助かったが、ピョンヤンで立ち往生していたら、駐留してきたソ連軍は「移動禁止令」を出して、1年以上も帰らせなかったのだから、僕ら一家は絶対助かってはいない。零下20度以下の冬を、夏服のままで、持ち金なしで、生き残れるはずはなかったのだから。
その後、母の親戚が相談し合って、僕は大阪の伯父宅へ、姉と妹は父の実家の、山梨の農家へ預けられ、僕は3年後に、姉は5年後に、母と暮らせるようになったが、妹は嫁入りするまでずっと、父の実家で育った。
母はTさんに礼状を何度か出したが、一度も返事はなく、それきり縁が切れてしまった。満州の社宅では親しくつきあっていたので、母はどうしてだろうと、不思議がったが、僕はわかる気がしていた。
穏やかな生活に戻ってから、あの人は思い返してたんだ、きっと。だれもが必死で自分と自分の子を守る時だった。よその子どころじゃなかったのだ。そういう非常時に、その人の〈心のはば〉というか、人間の本質が出てくるんだろうね・・。
(エピソードはいったんお終いにして、次回は児童小説に戻ります。)
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