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2XXX年の世界の国

今回は、自分の想像かつ妄想で「いつかこういう世界が来るのではないか」「こういう世界がきたらいいな」と思う世界について書いていきます。

SFくらいに思って読んで頂けたらと思います。


地球というデパート

先に結論から書いてしまいます。自分の住みたい国に自由に住む、という選択があらゆる人々の間で行われることで、国民が「国」を選ぶ時代がやってくるのではないか(きたらいいな)と思います。

現状、特に日本では多くの人が生まれた国である日本で暮らしています。

なぜ日本で暮らしているのか。あまり疑問に思わずに暮らしている方が多いと思いますが、理由として大きく2つに分けられると思います。

①積極的選択としての母国暮らし

Ex.日本が好き、日本での暮らしに満足している、等


②消極的選択としての母国暮らし

Ex.他言語が話せない(国籍取得の難しさも挙げられますが、そもそも言葉が話せないとお話にもなりませんので、言語の壁が最も大きな障壁になると考えます。)


ただ、②言語の壁については、技術の革新と共に、障壁が解消される未来が考えられます。

本格的な同時通訳機ができれば、言語の壁も無くなる未来がやってくるかもしれません。また、前述の国籍取得に関しても、言葉の壁さえ無くなれば現地で仕事に就くことができることから、国によっては比較的簡単に国籍取得が可能であると考えられます。(そもそもいつ来るか分からない未来の話をしているので、国籍取得についても現状からある程度変化があると考えます。)


日本人で現在日本に住んでる人の多くは、①か②、もしくは①と②の両方の理由で、日本での生活を選択していると考えます。

となると、将来的に海外での生活に対するハードルが技術革新等で下がった場合、②の理由で日本に暮らしている人々は、海外への移住という選択肢を取る可能性が高くなるということです。

そして、ここで実際に海外での生活を選択するかどうかは、日本での暮らしにおけるデメリットと海外移住のメリットを天秤にかけることになります。

この「天秤にかける」ということが、世界中の国にとって大きな変化をもたらすと考えています。

国にとって「人口」は成長に欠かせない要素の一つです。そして、そもそも「国家」というものは、その国に暮らす人々から「税金」という形でお金を徴収し、運営を行います。

現在既に先進国の多くは少子高齢化が進んでおり、このままのペースで進めば国民が減り、成長が止まるどころか、潤沢な資金である税金を集められなくなり、運営ができなくなっていってしまいます。

つまり、先程述べた「天秤にかける」という選択をする人々が、このタイミングで現れることで、国家は「人に選ばれる国」を作ろうとします。

例えて言うなれば、「デパート」です。

人々が自分の住みたい国を選び、そこにお金(税金)を払う。国は、集客(人口集め)のために、国民にとって暮らしやすい国を是が非でも目指す。

「うちの国なら、こんなサービスが受けられるよ」

「うちの国は、税金が安いよ」

人々は、自分の思想により近い政策の国を選んだり、より暮らしやすい国を選ぶというわけです。


既にデパート化は存在している

ここまで、SFのような話をしましたが、現実に既にこうした現象は始まっています。

それは、国内の「地方行政」です。

私がこのような想像を思いついたきっかけにもなりますが、私はLGBT当事者であり、同性のパートナーがいます。

引っ越す先として考えているのは世田谷区です。なぜなら、世田谷区では「同性パートナーシップ」という同性パートナーのための制度が存在し、さらには先日の区議会で「同性パートナーに社会通念がある」とする見解が示されました。

つまり私にとって、差別せずに受け入れてくれるから、世田谷区に住みたいのです。

逆に、足立区には絶対に住みたくありません。それは、先日足立区の区議会議員である白石正輝議員が本会議にて「LとGが法律で守られるということになったら、足立区は滅びる。」と発言されたからです。

前述のデパートで例えるなら、世田谷区店が自分達LGBTを迎えいれてくれ、こちらがお金(税金)を払う分、サービス(制度)を設けてくれる。

一方、足立区店では、店員の一人が店頭で「店内にLGBTの客が増えたら店が潰れる!」と叫んでいる。

絶対、後者に入店はしません。


極端な例えになってしまいましたが、つまり同性パートナーシップ制度は、導入している地域と、そうでない地域など様々なため、LGBT当事者にとっては、それによって住む場所を決めるということが既に起きているのです。


民主主義に対する諦め

冒頭で、今回書いた未来の世界は、「こうなったらいいな」という世界だと表現しました。なぜこれが私にとっての理想なのかについて最後に書きたいと思います。

日本をはじめ、多くの先進国は「民主主義国家」です。民主主義とはそもそも、国民が主体の国家という意味です。私は、世界史の中でもフランス革命が大好きで、今は法学部に所属していますが、その理由はどちらも「民主主義」という考え方が好きだったからです。人類史で考えれば、その多くの時間は王様や貴族など一部の権威が主体であり、市民はその主体ではありませんでした。近代的民主主義、つまり基本的人権や憲法などが備わった現在の民主主義の起点はフランス革命にあります。

現代を生きる私は、この「民主主義」によって「自分の人権が守られている」という安心感を感じていました。

しかし、自分が同性のパートナーを持ち、いざ結婚したいと思ってもできないこと、さらに同性婚に興味を持ってネットで調べた時にたくさん目にする差別的な意見の数々によって、その安心感は消えて無くなりました。

私にとって、民主主義によって守られていたと思っていた私の人権は、民主主義によって守られているマジョリティに淘汰されていると感じたのです。

マイノリティである私にとっては、ただ以前の王様や貴族が、「多数派」に変わっただけで、多数決で全てが決まる民主主義国家では私の人権は守られていないと感じたのです。

今回、私は「住む場所を選ぶことが自由にできる世界」について書きました。しかし、本来であれば、基本的人権が国民全体に保障されている以上、誰もが「その国で、国の制度上障害なく暮らしていく権利」も持ち合わせています。

私が生きているうちに、ここで書いたSFのような未来がやってくるかはわかりませんが、少なくともそうでない内は、私は、あらゆる障害によって海外移住を選択出来ないマイノリティのために、声をあげ続けなければならないのです。





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