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ワシントン軍縮 運命の分かれ道

1921年11月から22年初めにかけてワシントン軍縮会議が開かれました。半世紀前の太平洋戦争の戦記の書き物はここから始まるのが多いです。現在では満州事変から始まりますが、これは日中友好条約後に多くなりました。15年戦争の言葉もこの頃出始めました。

 ドイツが第1次世界大戦で負けたました。戦勝国と言われたイギリスとフランスは勝ったものの国力が衰退しドイツに莫大な戦争賠償金を請求します。史上初の社会主義国家のソ連が誕生しオスマントルコ帝国は縮小しトルコになり中東の力関係が不安定となりました。日本は日英同盟で参戦しドイツ領のサイパン島を含む南洋諸島と山東半島の利権を手に入れました。これで太平洋に足場を築きグアムを挟む形でアメリカの太平洋航路を牽制可能となりました。ヨーロッパの大国が喘いでいる隙をついてアメリカはそれまでの新興国の立場から国際社会のリーダーに飛躍を遂げました。アメリカの金がなければ世界は回らないからです。国同士の牽制しあいはいつの世でもあるものです。

 アメリカは自らの主導で各種の国際委員会を設立しました。その一つがワシントン軍縮会議です。中身は主力艦の制限を設けて軍拡競争を抑える事で、英米と日本の戦艦の比率は5対3にする事に決定しました。これはマンチェスターの法則では同じ能力の兵器同士が戦うとどの位の数が残るかで、日本は全滅し英米はもう1回戦出来ると言う意味になります。世界の海を制するイギリス、太平洋と大西洋を持つアメリカに太平洋に進出したばかりの日本が牽制を受けた形になりました。日本はその条件を受け入れる代わりにグアムの要塞化を禁止にし、いざ開戦となれば太平洋航路遮断を含ませました。それに対してアメリカは小笠原諸島、琉球諸島、南洋諸島の要塞化を禁止にしました。

 このワシントン軍縮会議では中国政府が国際社会で公式に呼ばれました。当時中国には北京政府と広東政府の二つがありましたが、アメリカは北京政府を公式な中華民国としました。そして山東半島の返還を認めさせました。これで日本の中国大陸への足掛かりを止めました。

 そして一番重要なのが日英同盟を破棄させた事です。イギリス側は日英同盟を破棄する理由はなかったのですがアメリカ側の圧力に負けたとなっています。全体的に日本に不利な条件をアメリカに飲まされる形となりました。大正デモクラシーで民衆はエロ黒ナンセンスと浮き立っている中で軍部は危機感を持ち始めました。このままではアメリカに勝てないと・・・

 


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