8月と閃光のハサウェイ | 20210807 | #フラグメント やがて日記、そして詩。16
8月も一週間が過ぎようとしている。はやいものだ。8月というと、夏、という思いがある。7月は厳密には夏ではないような気がする。8月に入ってからが、夏のはじまりのようでもあるし、8月が終わるということは夏が終わるということでもある。その一日一日、日付があらたまっていくのを見るにつけ、宿題を終えられない小学生のように、30半ばをすぎてもなお、焦燥にかられるのはなんでだろう。
なにをしようか。なにをして、この時間を少しでも食い止めることができるだろうか。そんなことを考えて、焦る気持ちをなだめようとする。しかし、この焦りがさらに時間を加速させる。いま、これを書いているのは京急の快特のなか。何駅もすっとばしていくのだが、まさに夏がこのように過ぎていくようだ。
せめてもの、積み重ねとして、いつもできないことをしようと思って、今週は3度も映画館に足を運んだ。8月2日に「閃光のハサウェイ」、4日に「竜とそばかすの姫」、5日に「東京リベンジャーズ」だ。今日は「閃光のハサウェイ」の感想のようなものを簡単に記しておこうと思う。
閃光のハサウェイ
随分前から見たいと思っていたが、延期延期でようやくいまごろになって見ることができた。「機動戦士ガンダム」も見たし、「逆襲のシャア」も見たのだが、それほどガンダムに詳しいわけでもないので、見なければ!というテンションではない。YouTubeの予告編を見たら、その絵柄のかっこよさに惹かれて、ガンダムでなくても見てみたいと思ったのが実のところだった。
だから、ハサウェイが「ハサウェイ・ノア」であり、ブライト・ノアの息子であることは見る直前に知ったくらいその内容に関しては関心がなかったと言っていい。ただ、「逆襲のシャア」なども見ていたからこそ、あ、あの世界の続きなのねというイメージが持てたのはよかったと思う。
それゆえ、この映画はとくにそれまでのガンダムを見ていなくても十分楽しめる作品だ。ガンダム見たことないからなあと渋っている人は、予告編を見てスタイリッシュだ!と思ったならばいますぐ見に行くべきだ。
「逆襲のシャア」のときから、富野由悠季の「シャア」への感情移入というのか、「地球がもたんときがきているのだ!」とか言って地球にコロニーを落とそうとするテロルの姿勢が、今回のハサウェイにもうかがえる。ずいぶん前の小説を原作としているが、その批判力はいまとなっても色あせることはない。
とはいえ、ハサウェイの若さゆえの甘さのようなものが人間らしくていい。あと、ハサウェイとギギ・アンダルシアとケネスの三者の芝居じみた芝居がよかった。あんなに臭い科白、芝居らしい科白をはくアニメキャラクターは最近なかなか見ない。これぞ富野節という感じがよく出ていて釘付けになっていた。なんでもないシーン一つひとつとっても会話の押収やしぐさでの心情表現が卓越していると思う。
市街地でのモビルスーツ戦の、モビルスーツの存在感たるや。あんなに大きな金属の塊が、ドッカンドッカンやっていたら、当然そうなるよねっていうリアリティ。ビームライフルによって融解した金属がはじけとぶ、ドロドロとした焔の塊が人々の上に落下してくる。それに触れたら、当然……というところまで戦場の恐怖が細部まで描かれている。
ガンダムへの凄まじい愛とこだわりによって成立しているアニメだと思う。ハサウェイのスーツやギギのミリタリーファッションのセンスなども最高だ。第二部を楽しみにしたい。
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それにしても、今日の午後にモデルナワクチンの二回目を接種したのだが、今回は注射自体がちょっと痛かった。一回目は射したのかな?ってくらいだったが、今回は射しましたあ!!という感触だった。ただ、射した時間は一瞬だったと思う。それから、数時間して、だんだんと左腕が重たくなり、ズキンズキンしてきて、もう腕があがらなくなってきた。
エヴァのように腕をだらんとして過ごしている。心なしか、身体もだるくなってきたような気もする。これでは、仕事どころではないと思う。幸いにも数日休みはあるが、ワクチン休暇は必要だろう。ひとまず、inゼリー系の食品と冷えピタ、ポカリスエットも何本か買ってきたので発熱の準備はできている。
体調不良になることがあらかじめわかっているのってなんだか不思議だ。「東京リベンジャーズ」にしろ、先日見ていた韓国ドラマ「シーシュポス」にしろ、タイムリープものが流行っているように、あらかじめ未来がわかっているからそれに備える感があっておもしろい感覚ではある。
しかし、あらかじめ未来がわかっていても、変えることができるかどうかはすべて自分にかかっているというのも人間味がある。怠惰がゆえに、あらかじめ未来がわかっていても、取り組まないことは往々にしてあることだ。常に人は未来の自分から、これをやっておけ、あれをやっておけと言われているのに、結局やらないで、同じ未来を迎えることになる。
悲しいことだ。