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「東京リベンジャーズ」と「日本的霊性」| 20210816 | #フラグメント やがて日記、そして詩。18

今日は「東京リベンジャーズ」と「日本的霊性」の話。

7月に美容室に行ったとき、美容師がアニメ「東京リベンジャーズ」を見てハマってしまい、続きが気になってコミックスまで買って読んでしまったと興奮しながら話していた。そのときには、どんな話かもわからないし、名前だけはネットフリックスのおすすめに出ていたなあという程度だった。

それから、夏休みに入って、さて何か見ようかなと思ったときに、人気No.1になっているし、見てみるか、と見始めたら、一日で最後まで見てしまった。なんとなくタイムスリップものであるとは聞いていたが、まさかヤンキーものであるとは思わなかった。

ストーリーは、主人公の「タケミッチ」が12年前の「今」にタイムリープできるという特殊能力をもって、当時付き合っていた彼女「ヒナ」が事故死する原因となった事件を未然に起こさないようにするという極めてシンプルなものだ。

その事件のもとになったのが「東京卍(まんじ)會」という不良グループの抗争であり、その「東京卍會」が結成されたのが12年前ということなのだ。そのため、後々に抗争が起きないように「東京卍會」のトップである「マイキー」とナンバー2の「キサキ」を会わせないようにしようと目論むところからはじまる。

そこで「タケミッチ」は「マイキー」と出会い、彼の人柄や強さに魅了されつつ、先回りしてさまざまな事件を解決に導いていく。ところが、なかなか未来は変わらない。このあたりは韓国ドラマ「シーシュポス」に似ている。「シーシュポス神話」がそもそも、何度も山の上に大きな岩を持ち上げては、落とされて、はじめからやり直さなければならないように「東京リベンジャーズ」も何度もやり直さなければならない。

そこに、「なぜ?」が発生して、さらなる深みに入り込んでいくことからさまざまな人たちが「東京リベンジャーズ」を楽しんでいるのだと思う。さらに言えば、当然のことながらそれぞれのキャラクターが魅力的であるということもある。

東京卍會トップのマイキーの強さ、そして、マイキーの親友であるドラケンの情の熱さなど、胸が熱くなるようなキャラクターが多数用意されているのがよい。

昨今は「不良」なんてものはもう過去の遺物になってしまった。僕が中学生くらいのころには、まだまだ暴走族やら不良っぽいものはいたが、それでももう見るからに「不良」みたいのはもう少なくなっていた。いまは、不良っぽさを残したEXILE風の感じが残滓としてあるくらいだろう。

街は健全化して、喧嘩や暴力事件なんかもその辺で起こることも稀になってきた。どこかいい子ちゃん風の人たちで溢れるようになったと思う。それはそれで僕のようないわゆる「文系男子(笑)」にとっては、安全でいいことなのだが、ある種の「筋を通す」みたいな「強さ」のようなものはなくなっていっているのは事実だと思う。

おそらく、そういう時代への「懐古」的なものとしてこの「東京リベンジャーズ」の「不良」をぶつけて、いまはなき「熱さ」のようなものに人々は熱狂しているということもあるだろう。まさにタイムリープしているのは、タケミッチばかりでなく、視聴者の我々も、当時の「熱さ」のなかにいるのだ。

ただ、その当時もマイキー曰く、いまは「不良」の時代は終わった。しかし、自分の尻は自分でふく、そういうかっこいい不良の時代をまた作りたいとして立ち上がったように、それがこのマンガ・アニメのメッセージなのだろう。

もちろん、「不良」に暴力はつきものだし、さまざまな事件や治安悪化の問題もあって歓迎すべきことではないのだが、「不良」には「不良」の流儀がある。それは完全な縦社会でもあるし、「女」には手を出さないというものであったりする。現代の感覚からすればさまざまな観点から言って問題のあることばかりではあるが、彼等が地べたで生き、何かしらの「信仰」(たとえばマイキーを絶対のものと見据える等)を持っている姿は、なんだろう、「武士」だと思った。

なぜこんなことを思ったかというと、ちょうど鈴木大拙の『日本的霊性』を読んでいたからだ。こんなことが書いてある。

武家は腕力をもってはいたが、武家の強さはそれではない。武家の強さは大地に根をもっていたというところにある。武家はいつも大地を根城としていたのではない。武家は腕力はある。武家と腕力とは離れられぬ。が、大地に根ざさぬ限り、腕力は破壊する一方だ。公卿文化は、繊細性の故に亡びる。武家文化は、その暴力性・専横性などの故に亡びる。腕力と大地は一つのものではない。腕力だけしかないものもある。公卿たちでも大地が顧みられていたら、平安時代のようなことはあるまい。この点を深く考えなければならぬ。平安時代に取って代った鎌倉武士には、力もあり、またそのうえに霊の生命もあった。力だけであったら、鎌倉時代の文化は成立しなかったであろう。鎌倉文化に生命の霊が宿っていたということは、その宗教方面に見られる。

よく「不良」がコンビニのまえなどでいわゆる「うんこ座り」をしているのはイメージできるであろう。あの地べたへの信頼性はまさに「大地」に根ざしたものなのではないか。もちろん、「不良」には「腕力」はある。そして、「腕力」だけのものは亡びるとここにあるように、それだけの「チーム」は壊滅してしまうだろう。しかし、「大地」に根ざしつつ、たとえばマイキーやドラケンのような存在を「おつかれさまです!」とみなで敬う精神性はここでいう「武士」の姿そのものであったと思う。

もちろん、これがいいことなのかよくないことなのかはまだ判然としないのだが、「東京リベンジャーズ」で描かれる「不良」たちの姿には「日本的霊性」のようなものがあるような気がする。

また、これは「日本的霊性」のような仏教的な話ではないのだが、主人公「タケミチ」の名がなんとなく「タケミカヅチ」を思わせるのは僕だけだろうか。「古事記」にあらわれて「出雲の国譲り」の交渉を為した神の名である。剣の神様としても有名である。勘ぐればさまざまなものと結びついてくるものだ。

劇場版(実写版)「東京リベンジャーズ」も見に行ってみた。吉沢亮演じるマイキーはとてもよく似合っていたと思う。とはいえ、僕のいちばんのテンション上がったシーンは「伊織もえ」が登場した数秒間だった。よくまとめたとは思うが、もっとエモい演出ができたのではないかとは思った。

  *

8月ももう半ばになった。雨がふりつづき、気温も20℃を下回る日々がつづいていて、身体がびっくりしている。この寒暖差はちょっといただけない。そのせいか、身体がだるいようななんともいえない心地で気持ちが悪い。

とはいえ、それでnoteが書けない言い訳になってはいけない。しかし、最近少し考えていることがある。こうして日記的にnoteを書いているのはいいが、やはり、論理的な進展というのか、蓄積、先に進んでいる感じというのがないのは精神的にこたえるということだ。何かしらを投稿しているという点で、前に進んでいる感じはあるが、論理的な進展がない。

そこで、ここ数日は、イシュードリヴンというか、何を問題とするかを考えていた。そもそもの目的である、この「日記」というテーマについて考えているはいるのだが、もう少し、体系的に、アウトラインを決めてから書こうと思った。アウトラインの提示はまだちょっと時間をかけてやっていくので、それまではこうした「断片的」なものになるが、徐々に中心に迫っていくようにしたい。

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佐々木蒼馬-aoma‐
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