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自分へのめりこまずに書く | 20210711 | #フラグメント やがて日記、そして詩。02
朝、ラジオで『アミエルの日記』の話を聞いていたら、急に日記がつけたくなった。思えば、このうすっぺらなノートを、すでに二年ごしで書きつづけているわけだ。私が日記を書かなくなったのは、いいにしろ、わるいにしろ、また私がよく知っている、また知らないいろいろな理由がある。ただ、今までの調子で日記を書きつづけて行くことは、もう意味がないようだ、ということだけはよくわかっているつもりである。もうすこし、自分へのめりこまずに書くことができないものだろうか。(石原吉郎「ノート」1957.1.15)
詩人の石原吉郎の著作を最近読んでいた。『望郷と海』(みすず書房)という散文集だ。正直、なぜ読んでいるのかはよくわからない。石原吉郎の現代詩文庫はいまはずっとトイレに置いてある。入るたびに、重苦しい詩を一篇一篇読んでいくことが日課になっている。
そのせいか、本屋で『望郷と海』というタイトルを見て、なんだか惹かれるものがあって手にとったまま、購入して読んでいる。戦争の禍々しい記憶が、語られていく文章を、なぜ、読んでいるのか。
単純な僕の「海」と「望郷」の思いと、彼の思いでは体験の重さが違う。だからどうしても、彼の文章に、「そうそう」と言いながら嚙み砕くことができない。最初に引用した文章も、「そうそう」と思いつつ、どうもなにか違うと、浅薄な己れを反省しながら、あえて引用した。「日記」について考えるヒントがあるのではないかと思うからだ。
「もうすこし、自分へのめりこまずに書くことができないものだろうか。」
おそらく、ここに「私が日記を書かなくなったのは、いいにしろ、わるいにしろ、また私がよく知っている、また知らないいろいろな理由がある」のだと思う。
これがいったいどういうことか。自分にのめりこんで書くと、一般に、おそらく内面の吐露になるのだと思う。今日は何があったこれがあった、……つらい。みたいなものになって、吐き出すという点では意味があるが、彼が日記に求めているのはそういうことではないのだろう。
では、何を求めているのか。こんなことを書いている。
ほんとうに日記を遠ざかってしまった。日記は要するに気安めだという安直な考えと、かりにも書きしるす以上、自分の内部に秩序を与えなければならないという気重さが、つい私を日記から遠ざけてしまった。私にとって、日記を書かないということは、自分がかつての状態のままで、乱雑に放り出されたきり、一向整理もされていないということである。生活はまったく安定を失ってしまったにも拘らず、精神は当初の危機感をまったく失って、むしろ無為に狎れ親しんでいる。このような危機に向って生き生きとめざめていること以外に、自分は「生きる」ということは考えられないが、そのために絶対必要なエネルギー、気力の集中は、しっかりと毎日の生活を整理して行くことによってのみ得られる。だから、日に一度日記を書くことによって、自分の乱雑な、だらけ切った内部を容赦なく整理して行かなければならない。(1958.4.2)
もうずい分長いこと、日記をつけるという習慣を失っている。僕にとって、日記をつけないということは二重の問題を意味している。ひとつは、僕自身、自分を整理し、考える意志を失いはじめたということであり、あらゆる問題に対する無関心、日常性への埋没の最初の徴候があらわれ始めたということである。……後略……(1960.4.17)
日記は、自らの内部の整理であるということ。つまり、内部の吐露ではいけないのだ。自らを客観視し、対象化し、メスをいれて整理すること。彼が日記に求めていることは「整理」だったのだ。自分にのめりこまずに、自らの内部を整理すること。
おそらく、「のめりこまず」というのは、自らを無化しようとすることとは違うと思う。「自ら」への執着があるからこその「対象化」なのだと思う。
なぜなら、日記を書かずに整理をしないということは、「日常性に埋没していく」ことになるからだ。日常性に埋没していくと、すっかり自分を見失ってしまう。ここには非常な関心と共感を寄せて読んだ。日常性に埋没していくことの恐怖……。いまは、語るまい。のめりこむまい。
こうした反省があってなのか、彼のノートは徐々にその断片化の性格を強めていく。1962年くらいのノートからはアフォリズムのような形になっていく。
キリスト教的な精神あってのことだろうか。あるいは、大戦中の空気感なのだろうか。アフォリズムとなった彼のノートを読んでいると、シモーヌ・ヴェイユのノート(カイエ)『重力と恩寵』を思い出した。
近頃、本棚の整理をしていたら、なぜか目に留まった『重力と恩寵』を手にとって、リビングに持ち出していた。特段そのときに読もうと思ったわけではない。なんだかどこかで「恩寵」という言葉と出会った気がするなあという不思議な感覚が手にとらせた。
僕が『重力と恩寵』を買ったのはそれこそ10年ほど前のことだと思う。ちょうどちくま文庫で出たところで話題となって、買ってみたものの、当時の僕にはまったく響いてこなかったのだ。だから、「いまの僕には必要のない書物だ」といったことをTwitterでツイートしたら、誰かがエアリプで「そんな人もいるんだ……」的な失望感が書かれていたことがあって、記憶に残っている。(エアリプって結構心に突き刺さるものだ……)
だが、今日、なぜかわからないが読み出してみると、いまはなんだかわかる気がして一気に読み通したのだった。
とはいえ、自己無化へと向かうシモーヌ・ヴェイユと、石原吉郎のスタンスは異なる。しかし、その過程の厳しさのようなものは共有している気がする。ということで、明日、またここにとりかかってみようと思う。
さて、今日はモデルナワクチン翌日だったわけだが、昨夜から腕が痛みだしていたが、もはや寝返りがうてないほどの痛みとなった。歩いていてもズキンズキンとする痛みがある。熱は出ないようだが、もう一日、様子を見て、何もなければ、きっと大丈夫だろう。
それでは、また。
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