既視感の正体
僕は街を歩く夢をよく見る。
それも決まって同じように遠い昔「実家」があった東京都世田谷区の街だ。
もちろん知らない街よりも、記憶の片隅に残る街の方が、夢にとってもわざわざゼロから作り出す必要もなく好都合なのかもしれない。
街の雰囲気も構造も、そして実家もおおよそ丁寧に再現されているのだが、いざ目覚めてから思い返すとやはりその細部には違和感があったりする。
ここにそんな高いフェンスはおかしいだろう、あんなところに扉なんてある訳がない、そういえば狭い五丁目商店街にやたら車が走っていたな…という具合に。
もちろん夢を見ているあいだは、それが真実のディテールとして疑うこともない。
近頃、僕はAIを使って画像を生成するようになった。
AIにキーワードを幾つか与えれば、それらしい画像を提示してくれる。だが、そこはまだ令和五年のAIだ。生成した画像はどこかがおかしかったり、ふんわりしている。
思わず「ここにそんな高いフェンスはおかしいだろう」と突っ込んでしまう。
あれ?
ここで僕は気付いてしまう。
AIの出力した“どこか違和感のある世界観”は夢で見る映像とよく似ていることを。
記憶の断片をツギハギして出来上がったような世界観。本質まで読み込まず外側の情報だけをなぞるような光景。
どちらも情報のパッチワークで出来上がっている。裏にまわれば双方ともハリボテなのだ。映画「トゥルーマン・ショー」のように。
この記事のトップ画像はAIが生成した「地下鉄」である。
冷静に見ると無茶苦茶である。そんな車内なのかホームなのかも判別できないこの「地下鉄」も夢の中で歩いていたらきっと疑問に思わない。
と、そこまで考えて更に踏み込んだ部分に気付いてしまった。
夢とAIの画像が似ているということは、ひょっとすると我々が生きているこの世界は
おっと
誰かが来たようだ。