見出し画像

[小説]六号

<あらすじ>
 1991年中国東北地方の小都市。その街で日本語学校に通う主体性のない“あたし”が、帰り道に偶然立ち寄った『羊肉串』屋で働く同年代の子“マオ”と交流することで知る新たな世界の価値観。
 時同じくしてソビエト連邦崩壊という遠くて近い歴史的ニュースに直面しながらも、その距離感をうまく捉えられない“あたし”は市場で宇宙飛行士のピンバッジを買う。それはソ連の女性宇宙飛行士だった。“あたし”はそのバッジの女性の名前を調べて“マオ”へ伝えようとする。

1


 マオは慣れた手つきで薄く切った小さな肉の塊を素早く鉄の串に刺し終え銀色のトレーに置くと、吊り下げられている青いタオルで手を拭った。手についた血や脂を丁寧に拭うというよりも軽くタオルに触れているようにしか見えない。拭う必要性よりも儀式的作業みたいだ。
 そして今度は塩を摘むと、既にガスの焼き台に並べられていた羊肉串に向かって無造作にふりかけた。適当にも見えるし適量にも見える。炎が肉を呑み込むように高く上がる。

 あたしはそんなマオの流れるような動きを観察するのが日課になっていた。パラパラ漫画をめくり続けるようにずっと目で追える。
「今日、新聞かテレビ見た?」とマオは鉄串の束を回転させながらぶっきらぼうに言った。煙がふたりの間に薄いカーテンを作り時折マオの輪郭が白く揺れて見えた。
 あたしは首を横に振る。そういえば新聞なんて最後に読んだのいつだっけ?
「ソビエトが終わったってさ」とマオ。
「ソビエトが終わった?」とあたしは繰り返した。『ソビエト』と『終わった』の文法的繋がりが咄嗟に理解できなかった。文体の響きがとてもちぐはぐに聞こえる。言葉の意味がよく判らなかった。調和していないふたつの素材を鍋で煮詰めたようだ。やはりよく判らない。
 マオが肉を焼く動作は頭で考える前に体が自然に動き出しているかのようだ。常に手元の串を見ながら、調味料を摘まんだり、タオルで指を拭ったり、肩まである髪をかき上げたり。脳を通さず肉体が一連の動作を全て記憶しているようにすら見える。もしかしたら首から上がなくても、何も変わらず肉を焼き続けているかもしれない。
「崩壊したってこと」とマオは、そんなあたしの馬鹿げた妄想を切り裂くようにそう言った。
「ほうかい」とあたしはゆっくり発音してみた。
「そう、崩壊」

崩壊――そんな言葉を十九年間生きていて初めて日常会話で耳にした気がする。マオは彼女なりに判りやすく言い換えたつもりなのかもしれないが、あたしはまだ理解が出来ずにいた。

「崩壊するとどうなるの?」とあたしは訊ねた。
「なくなるんだよ」
「ソビエトが?」
「そう、ソビエトが」
 マオは唐辛子やクミンを混ぜ合わせた粉をつまむと肉に振りながらそう言った。肉は脂で照り輝き、焼ける香りはあたしの嗅覚を刺激する。マオが着ている軍払い下げの分厚い緑色の外套は、煙が吸い上げた肉の脂で黒いシミがあちこちにできている。
「一党独裁の連邦国家がこのコンロの煙みたいに舞い上がって消えてしまったってことさ。辺り一面に煤だけ撒き散らしてね」
 あたしは真っ黒に染まったユーラシア大陸を思い描いた。建物も人も真っ黒。
「消えてしまったらソビエトはどうなるの」
「そりゃ広大な空き地になるに決まってるだろ」
 そう言ってマオは今日初めてあたしの目を見て笑った。あたしよりもずっと高いマオの鼻は三日月のように綺麗な弧を描いていた。
「空き地?」
「モンゴルの草原みたいに正面を見据えても星が見えるくらいの広大な空き地さ」
「それは冗談? 本当の話?」
 ソビエト連邦の情勢については連日新聞で報道されていたが、あたしはきちんと読んだこともなかった。隣の国で何が起きてもこの国は何も変わらない。そう思っていた。
「あんた学生のくせに何も知らないのかい」
 そう言うマオはあたしと同じ歳。それなのにずっと大人に見えた。あたしと違いひとつひとつの言葉がしっかり着地点を見据えている感じだ。いまだ働いたことのないあたしとはきっと別世界で生きている。
 背後でクラクションが鳴り響き、どこかの誰かが何かに対して一方的に怒鳴り散らしている。同時に路上で鎖に繋がれている黒い犬が短く吠えた。外語学院へ通う生徒でこの道を使う人間はあたししかいない。
「学校では日本語を学んでいるだけだし」とあたしは答えつつ、それが何も意味をなさないひどい言い訳だと思った。
「それなら余計に国際情勢くらい知らないと駄目だろう」
 無言で頷いた。そうかもしれない。
「あんたはいつか日本に行こうと思ってるんだろう?」とマオは焼き台の横に置かれた生肉にたかる蠅を手で払いながら言った。
「日本関係の仕事に就けたら……でも、あたしの実力で日本への切符を手に出来るとは思えないんだ」
「そんなのやってみないと判らないじゃないか。なんでやってみる前からそんなことを言うんだ?」
 自信がなかった。あたしには強い意志がない。意志がないのは夢がないのと一緒だ。そう思う。
「それに……」とマオは続けた。「あんたに日本に行って欲しいんだよ」
「どうして?」
「口紅を買ってきてもらいたいんだ」
「口紅?」
 あたしはそう言いながらマオのぽってりとした口元を見た。化粧っ気はないが、唯一耳に金のピアスをしている。
「そう、資生堂の口紅」
 資生堂の口紅はこの国でも高級デパートの一角にしか置いていない。そして普通の紙幣では買えない。外国人が両替で所持した外貨兌換券でのみ購入できる代物だと母親に聞いたことがある。資生堂は、あたしやマオがどんなに金を持っていても買えない化粧品だった。
 マオは焼けた羊の串を一本手に取ると再び香辛料をまぶしてあたしに差し出した。それを受け取ると同時にあたしはポケットから硬貨を取り出し渡す。いつものやり取りだ。
「うん、もし日本に行くことがあれば口紅を買って帰るよ」とあたしは答えた。
「頼むよ」
「でも、遠い未来かもしれない」
「大丈夫。あんたの言う遠い未来でも私はこの地で肉を焼いて待ってるから。約束ね」
「うん、約束するよ」
「資生堂だよ」
「間違いなく」
 肉は少し硬くて噛むと塩と脂が混ざり合い癖のある風味が舌の上で広がった。幼い頃、初めて羊を食べた時に感じた臭みが、時と共に旨みとして自分の中で認知されるようになっていた。あたしが少し成長したせいかもしれない。大人たちはこれをビールで流し込む。あたしは酒を飲まないが、この羊の旨みがビールとよく合うだろうということは理解できる。
「あんたはそのうち日本に行ける、きっとうまくいくと思うよ。こことは違う世界を覗いてきたらいい」とマオが肉を頬張るあたしに向かいそう言った。
“こことは違う”とマオは言うけれど、そんなに国と国って違うものなんだろうか。この土地から外に出たことがないあたしにとってマオの言うところの“違い”を想像で測ることは容易ではなかった。でも、彼女はまるですでにその“違い”を知っているかのような口ぶりだった。
「マオは他の国へ行ってみたいとは思わないの?」とあたしは訊いた。
「行くチャンスも金もないさ、私は生まれた瞬間からずっとここで羊を焼く人生っていうふうに決められてるのさ」
 マオは焼き台の上で串の束を持つ手の動きも止めずに淡々とそう言った。別に残念がる様子もない。目の前に出された林檎の色を『赤』と答えるように、ただ事実について説明してるだけのような口調だった。まるで自分自身を俯瞰して観察しているようだ。
「だから、私はあまり『~したい』って感情がないんだ。行ってみたい、やってみたい、買ってみたい、住んでみたい、~したいって思える人は、少なからずそれが叶う可能性を持ってる人だ。私は違う。一度まいた種がその地面から離れないように、私はここでコンロの上の鉄串を回し続けるのさ」とそこまで言うと持っていた串を置いて火を弱めた。「卑屈になっている訳じゃない。ただ、私は私のことを知っているだけさ」

私は私のことを知っている”

 同じ歳の発言にはとても思えなかった。とてもじゃないけど、あたしはあたしを知っているなんて言えない。自分を知るという行為について考えたことすらなかった。
 食べ終えた串を空き缶に入れる。
「また明日」とあたし。
「また明日」とマオ。
 帰り道、あたしはずっと自分について知るということがどんなことなのかを考えて歩いた。もちろんそこに答えはなかった。

2


 この街に立ち並ぶ集合住宅は全て五階建て。住人でも入口を間違うほど同じ形をしている建物が無数に建ち並んでいるので、それを区別するために窓の木枠が棟ごとに違う色で塗られている。
 あたしの住む建物は鈍いオレンジ色の木枠。完成当時はきっと鮮やかだったと思う。でも、あたしが物心ついた頃にはくすみ、ところどころ塗料剥げしたオレンジ色の木枠が窓に張り付いていた。建物の漆喰も一部は剥がれ落ち中のレンガが見えていた。最上階部分の窓がない横の壁面には大きく六号とペンキで記されている。

 六号

 それがあたしの集合住宅の名前だ。洒落た名前がある訳でもない。この街の集合住宅は全て番号で呼ばれる。隣は五号でその隣は四号という具合に。
 この地域の中央には大きな市場があり、生活に必要な買い物のほとんどはそこで済ますことができた。そんな中央市場を軸として放射状に道が伸び、市場の周辺には銀行や病院、小規模なホテル、学校、数軒のレストランと会社の詰まった幾つかの雑居ビルが建つ。そして、その外側には同じ形の集合住宅がひしめき合っている。六号棟もその一角にある。

 六号棟の裏手にはドブ川が流れている。その蛇行した川に沿うように整地されていない細い道があり、数キロ進むと川から離れやがて徐々に道幅が太くなり隣の小さな街に入る。
 入口には客待ちの三輪バイクがいつも止まっている。シートに跨った運転手は煙草をくわえながら通り過ぎる人を目で追っている。排気ガスと砂埃で顔は汚れ、それを隠すようにハンチング帽を深くかぶっている。
道の両側には個人商店が幾つか立ち並んではいるが活気はなくいつも静かな佇まいだ。映画館で観た古い西部劇の街並みに似ていた。自転車の修理屋や果物屋、雑貨屋に洋服屋。どの店も国が用意した同じ規格の四角い小さな建物だ。人ひとりが横になれないくらい狭いレンガ造りの建物は、通りに面してシャッターがついており、最初から住居はなく店舗用として作られた“箱”だ。そんな等間隔に建ち並ぶ箱と箱の間には二メートルほどの隙間があり、そこには必ず労働者の団結を謳うスローガンを掲げた看板が立てられていた。

――労働者よ 団結して豊かな生活を――

 街の人間は国からその箱を借りて細々とそれぞれの商いをしていた。そのひとつがマオの店だった。
 シャッターの上には赤く塗られた木の看板が掲げられ、その上に白い文字で『羊肉串』と三文字記されていた。建物の壁面には緑色のガスボンベが繋がれている。
 店先には腰の高さまである台が設置されその上に焼き台が置かれているだけのシンプルな造りだ。その焼き台でマオは毎日昼から夜まで羊の肉を焼いていた。店の前にはプラスチックの小さな丸椅子が三つ並べられて、その横には食べた後の鉄串を入れる空き缶が設置されていた。常温の瓶ビールも売っている。

 あたしは外語学院へ通うようになった今年の九月まで、家の裏道から続くその隣街の存在すら知らなかった(当然マオのことも)。しばらくは大通りを選択して学校へ向かっていたが、そのルートがかなり大回りしていることに気付き、仕方なくドブ川に沿った裏道を選択するようになった。
 正直最初はその道を嫌っていた。隣街に出るまで雑草が生い茂った細道は常に薄暗く、ひとりで歩くには少し心もとなかったし、なによりも川の悪臭がひどいものだった。生ごみや油や糞尿が混ざり合ったその川は全ての人間から見放されていた。街からも国からも。きっとこの国のリーダーはこんな川があることすら知らないと思う。労働者の団結を謳う前にこのドブ溜まりを本来の川に戻してほしいと感じた。

 そんな最短ルートで学校へ通うようになってほどなくしてマオと知り合った。帰宅時に羊の焼ける匂いに惹かれ、光に集う虫のように気付けばマオの前に立っていた。
「何本?」
 あたしの顔も見ずにぶっきらぼうにマオは言い放った。
「一本」とあたしは咄嗟に何も考えずに答えてしまった。
「五角」とマオ。
 あたしが慌ててポケットから小銭を出そうとすると「おい、見てみな」と言葉でそれを制止した。「私は今何をしている?」
「肉を焼いてます」と圧倒されたあたしは目に見えたままのことを言った。
「な、両手塞がってるだろう? 金は串を渡す時に交換だよ」と言い放った。親にもそんなに強く言われた覚えがないあたしは唾を呑み込んで固まってしまった。
 それがふたりの初めてのやりとりだった。

 その日から学校の帰りに必ず一本の羊肉を食べるようになった。すぐに顔馴染みとなり、彼女の名前がマオで同年代であることを知った。時折見せる乱暴な物言いは、決して悪気がある訳じゃないことも知った。
 これまでの学生生活ではあり得なかった買い食いの楽しさよりも、マオとの接触が楽しみになっていた。彼女はあたしの知らない知識や経験を話してくれる。マオの言葉には耳慣れないアクセントの違いもあってそれも新鮮だった。
 『羊肉串』の店先でマオと話す時間は、大袈裟ではなくまるで違う国へ旅行するようなそんな精神の高まりすら感じていた。

3


 今日も空には雲ひとつ見当たらない。目に見える範囲、端から端まで均一の灰色だ。子供の頃見た絵本に“照りつける太陽”という表現があったが、この世界には本当にそんな“照り付ける太陽”が存在するのだろうか?

 マオの言うようにあの日ソビエトは崩壊した。それからしばらくは毎日のように新聞ではそのことについて書かれていた。ただどこまでが本当のことなのか判らない。この国に生きるあたし達の多くは自国の報道を鵜呑みにしていないからだ。

 六号棟からアカシアの木が等間隔に植えられた表の通りをしばらく道なりに進むと中央市場がある。その中にソビエト連邦の雑貨だけを揃えている風変わりな店があることを思い出した。
 あたしは日曜日にその店へ足を運んだ。特に興味がある訳でもなかったが、ソビエト連邦が崩壊するとその店は果たしてどうなってしまうのかが少し気になった。
 市場は広く食料品から自転車までなんでも売っている。全体を取り囲むようにしてレンガ造りの壁があり、その壁の節目に何本かの鉄柱が伸びている。それを支柱にポリエステルのような白い生地がテントのように市場全体を覆っていた。ゴムシートが敷かれた通路には店の人たちが食べ終えたひまわりの種の殻が散乱している。昔から何も変わらない、子供の頃から慣れ親しんだ場所だ。買い物をする場所といったらこの市場しかなかったし、思いつく限りの家庭で必要なものは全てこの中で完結できた。
 その一角にソビエト雑貨の店があった。
 まじまじと覗くのは初めてだった。店の主人は髭を蓄えた小太りな男で、黒いダウンジャケットを着て椅子に座り新聞を読んでいた。その姿は積み重なった廃タイヤにも見える。男はあたしに気付くが、特に何も言わず読んでいた新聞に視線を戻した。
 隣の店との境界線には仕切り台が置かれていて、その壁にはソビエトのタペストリーが何枚も貼られている。どのタペストリーも赤くその中に同じ男の横顔が描かれていた。男の前には大きなガラスの陳列棚があり見慣れない勲章や腕時計に双眼鏡、そして切手や硬貨や紙幣が乱雑に並べられていた。その配置は規則性も何もないように見える。
「こんにちは」
 男は新聞を読み続けている。
「ソビエト崩壊しましたね」とあたしは構わず男に向かってそう続けた。返事を返してくれない気がしたので、独り言のように声のトーンを少し抑えた。
「こうなるだろうなって思ってた」と意外にもあたしの方を向いてすぐ男は答えた。「前兆はあった」
「前兆」とあたしは繰り返す。この男もまた-あたしにとって-日常で出会わない言葉を持ち出してきた。
 男はゆっくりと椅子を軋ませ立ち上がると、ガラスケースに両手をついてあたしと向き合った。目元のクマはたるみ、髪はぼさぼさで人というより獣のように見えた。
「ここの雑貨は全てロシア人が定期的にハルビンまで売りに来たものを俺が買い取ってる。ハルビンくらい知ってるだろう?」
 あたしは頷いた。ハルビン。ここからもそう遠くはない最北端にある街だ。冬はこことは比べものにならないほど寒くなる。
「そこであいつらから買い付ける時にひとつルールがある」
 男は太い人差し指を突き出してみせた。
「ルール?」
「決して出所を探るなってルールだ」と、男は言うとガラスケースを軽く叩いた。「お嬢さん判るかい? 勲章はもちろんこの腕時計も一般流通はしていない品さ、軍や政府の財産って訳だ」
「言ってることは判ると思う」とあたし。
「じゃあ、なんでそのロシア人達はそんなものを隣国で売り捌ける?」
 あたしは少し考えてから「盗品?」と答えた。
「盗品といえば盗品かもしれないが、少しニュアンスは違う。内部の人間が横流ししてるんだ。ある時は生産工場から直接、またある時は軍の基地から運ばれてくる。士官が私物を売ったりもしている。俺は長いこと取引してたが、八十年代に入ってからは特に政府の私物がたくさん流れてくるようになってな、それこそ“ここには置けないもの”なんかも手に入るようになったんだ」
「ここには置けないものって……」とあたしが言いかけると男は人差し指を突き出して遮った。
「古いトカレフと弾だ」
 男はあたしに顔を近づけてそう囁いた。
「俺が“それ”を買ったかどうかは詮索しないでくれよな。それで俺はピンときたんだ、あの国は終わりへ向かっていると。そう感じた矢先に崩壊しちまった。崩壊後はハルビンまで売りに来るロシア人の数も倍増してる。先週なんてこんなものまで持ち込んできやがった」
 そう言うと男は背後の衣装ケースの中から小さなプラスチックケースを取り出すと、蓋をあけた。中には綿が詰まっていてその中には小指の先ほどの赤いカケラが入っていた。レンガの破片のように見える。この市場の外で無制限に拾えるようなただのカケラだ。
「こんなカケラを誰が買うと思う?」と言って男はヤニで黄ばんだ歯を出して笑った。「俺が買った」
「これは?」
「クレムリンの城壁のカケラだ。十五元でどうだ?」
 あたしは丁寧にそれを断った。十五元でレンガのカケラを買って帰ったら、あたしは親から叱責される前に精神の心配をされるに違いない。
「じゃ、こんなのどうだい?」
 まるであたしが何か買うと断定しているそぶりで次を勧めてきた。でも、そのきっかけを作ったのはあたしかもしれない。男はガラスケースからピンバッジの詰まった箱を取り出すと、無造作にひとつ摘まみ上げてそれをあたしの掌にのせた。
 赤い星形のピンバッジだ。中には黄色い鎌と鎚が描かれている。
「共産主義のシンボルだ」
 あたしは黙ってそれを眺めていると別なバッジが掌にのった。人の横顔。
「レーニンだ」
 男はそう言いながら次々とこぼれ落ちそうになるくらいバッジをのせてきた。
「戦勝記念日のピンバッジもある、これは1973年陸上大会記念バッジ、これは戦車モチーフだ、こっちはモスクワオリンピック、そして宇宙飛行士だ」
「宇宙飛行士?」
 思わず復唱した。そのバッジが宇宙飛行士に見えなかったからだ。全体は丸く鈍い金色でバッジの丸い形に沿うように端にはキリル文字が刻印されている、その中にもうひとつの青い塗料で固められた円があり中央に女性が彫られていた。髪は短く整えられはっきりと力強い視線を正面に向けている。顔に笑みはなく口を一文字にきつく結んでいる。ロケットや星が描かれている訳でもなく、それだけではすぐに宇宙飛行士とは結び付かないような図案だ。
「この人、宇宙飛行士なの?」とあたしは不安げな顔をして訊いた。
「あぁ、そうだ。そうロシア人から確かに聞いた。俺だってどこの誰かまでかは知らないよ、でもロシア人は彼女が宇宙飛行士だって言った」
 女性の肖像は首から上だったが、そう言われてみると首のまわりが宇宙服のそれのようだった。ただそれは宇宙飛行士というイメージを持って見ない限り、気付かないレベルだ。
「おじさんロシア語できるの?」
「いや、ハルビンで商談する時はそこにロシア語が堪能な古い友人が必ず同席してくれるんだ、何十年商談していても、あいつらの言葉を覚える気にはならんよ」
 なぜだか判らないが、手の上にのったたくさんのバッジの中であたしはその宇宙飛行士のピンバッジだけが特別なものに思えた。バッジの中の女性は何かを語り出そうとしているようにも見えた。男は黙ってあたしの次の言葉を待っている。

だから、あたしは男の求めているであろう言葉を口にした。
「おじさん、これいくら?」

4


 眠れなかった。
 目覚まし時計の蓄光塗料がぼんやりと午前一時を指していた。

 tick-tack-tick-tack

 針が時を刻む音だけが乾燥した冷気と共に耳にするりと入り込む。
 あたしは枕元に置いた宇宙飛行士のピンバッジを撫でながらうまく眠れない自分と向き合っていた。バッジの刻印の凹凸が心地良かった。
 この国にいると、外の出来事が同じ世界で起こっているようには思えない時がある。まるで国ごとが違う次元に存在する惑星のように感じる。印字された新聞やブラウン管の中で喋り続けるアナウンサーがいくら外国のニュースを伝えようとしても、そこにどれだけの真実が内包されているのかが判らない。外国のニュースだけじゃない、国内のニュースもそうだ。都合のいい話と悪い話。それを等しく伝えようとはしないと思う。あたしだってそうだ。不都合な話は他人に知られたくはない。
 きっと世界は広いと思う。それはあたしが思う以上に広いに違いない。
 自国にいるとそこがまるで世界のヘソであるかのような錯覚に陥るが、それは間違った思想なんじゃないかと思う時がある。
 あたしは海外の情勢に興味がない訳ではなく、真実を知る術がないから興味が持てないんじゃないか。そんな気がする。

 tick-tack-tick-tack

 午前二時。
 何が本当で何が嘘なのかよく判らない。
 このバッジの女性は果たして本当に宇宙へ飛び立ったのだろうか。そんな疑問すら芽生えてくる。
「あなたは誰なの?」
 窓から差し込む月明りにバッジをかざして問いかけた。人差し指と親指に挟まれたピンバッジは黒いシルエットとなりあたしの前に浮かび上がる。
「ねぇ」とあたし。「あなたは誰なの?」
 影に隠れた女は何も答えない。
 あたしはバッジを投げ出して繭の中の蛹のように毛布に包まった。遥か遠くの港から響く貿易船の汽笛が、そんな繭の中まで聞こえてくる。

5


 日本語を選択した理由はひとつ――仕事に繋がりそうだったから。それだけだった。
 それ以上でもそれ以下でもなかった。日本に対して過度な憧れもないし、好きな文化がある訳でもない。もちろん嫌悪感もない。良く言えばとてもフラットな状態で日本を捉えていたし、悪く言えば興味がない故の無知だった。今でも東京と大阪の位置すらぼんやり記憶している程度だ。それに高校の第二外国語でも日本語を(なんとなく)選んでいた。だから今更あえて他の言語の知識を自分の脳に吸収する熱量はもうあたしにはなかった。それにこの街から数十キロ離れた海岸線近くに、近年広大な経済開発区が出来上がり多くの日本企業がやってきた。学校の掲示板には毎日のように日本語学科向けの求人情報が貼りだされて、卒業生の多くは開発区の日本企業で働いていた。
 外語学院では他に英語とドイツ語、朝鮮語が選択できたが、英語やドイツ語を学ぶことでそれを仕事に繋げた卒業生は皆無だった。少なくともこの東北のエリアではあまり役に立たない言語だ。
 朝鮮語はわざわざ学校で学ぶ必要もなかった。この街にはあたしのような漢族の他に多くの朝鮮族がいるからだ。友達にも何人か朝鮮族がいて朝鮮語も話せる。その気になれば彼らから教えてもらえばいいだけだし、彼らがいるのに朝鮮語をゼロから学んだあたしに仕事の需要なんてある訳がない。
 そもそもあたしにはあまり主体性がなかった。流れる方に流れたらいい、そんな気持ちで毎日学校へ通っていたし、主体性がないからシャツの襟に名前も知らないソビエト宇宙飛行士のピンバッジを付けて、親からもらったスイスのボールペンで日本語を学んでいる訳だ。我ながらどうかしてると思う。

 スモッグを潜り抜けて黄土色に変色した西日は、帰り道を歩くあたしに長い影を作った。
 道の両側に角砂糖のように建ち並ぶ“箱”は、人が立っていなければ営業しているのか判らないくらい中が暗い。どこもオレンジ色の鈍い電球ひとつで営業している。衣料品店は吊られた洋服の色も判別できないし、魚屋はそれが鮮魚なのか干物なのかすら判らない。道には至る所に動物の糞が冷たく乾燥し煙草の吸殻や唾液が散乱している。街の中央市場と違って活気もなく、人もまばらだ。見慣れた光景でも心がザラザラとする。
 しばらくその道を進むと箱のひとつから白い煙が立ち上っているのが見える。マオの羊肉串だ。その煙を見るとなぜだか気持ちが安らぐ。砂漠で見つけた水溜まりのようだ。あたしは少しだけ歩幅を変えてその箱へ向かう。
「今日は何本?」とマオは店の前に立つあたしの気配に気付くと焼き台から目を離さずにわざとそう訊く。知っているのに。
「一本」とあたし。
「あいよ」とマオは両手で回転させていた串の束を全て左手に持ち、そこから右手で一本だけ抜き出してあたしに渡した。あたしはその伸びた右手が焼き台へ戻る前に硬貨を渡した。あたしはこの一連の流れが好きだった。実際は羊の串を買っているだけなのだが、なんだかとても大切な儀式のようにすら感じていた。手順を間違ってはいけない神聖なものだ。
「なんだい、それ?」
 マオは煙の奥で目を細めてそう言った。
 あたしははじめ何を指しているのか理解できなかったが、すぐにマオの視線があたしの分厚いベージュのコートの中から見えるシャツの襟もとに向けられていることに気付いた。襟には金色に光るピンバッジが付いている。
「共産党のバッジかい?」
 マオは難しい顔をして覗き込む。
「宇宙飛行士のバッジ」とあたし。
「何?」
「宇宙飛行士のバッジ。ソ連の女性宇宙飛行士」
 あたしなりに知っている情報を丁寧に言葉にしてみたが、マオは眉間のしわを戻さない。まるで糊で固められたようだ。あたしはこのバッジに関してこれ以上の情報を持ってはいなかった。
「オーケー、私は今おそらく混乱している」とマオ。「少し考えさせて」
 マオがピンバッジを凝視している間にあたしは肉を頬張り、食べ終え、鉄串を空き缶に入れた。
 マオは大きく唸った。
「そのバッジの彼女は宇宙飛行士なのかい?」
 あたしは頷く。
「いつの?」
「判らない」
「ソ連の宇宙飛行士なんだろう?」
 あたしは頷く。
「名前は?」
「判らない」
 なんだか詰問されている気分だった。マオは大きく息を吐いた。
「どこで手に入れたの?」
「中央市場にある雑貨屋」
 あたしがそう言うとマオは喉を鳴らした。
「まとめるとあんたは市場で名前も何も知らないソ連の宇宙飛行士のバッジを買って、それをシャツに付けている訳だ」
「そういうこと」とあたしは答えた。そういうこと。
 マオは数秒黙ってあたしの目を見つめてから「なんで?」と、とても真っ当な疑問を投げかけた。

 彼女が何かを語りだしそうだったから

 そんな理由でマオは納得してくれるだろうか。でも、ほかにいい言葉が見つからない。このピンバッジだけがあたしの中の釣り針に引っかかった。あたしが引っかけたというよりは、向こうから喰いついてきた気さえする。
「この人が何かもの言いたげに見えたから」とあたしは素直にそう告げた。
「もの言いたげに見えた……」
 マオは一呼吸置いたあとにあたしの言葉を繰り返した。
「こういうの変かな」とあたし。
「いや」とマオ。「それって瞬間的に惹かれたんだろう? 大切な要素だと思うよ」
「大切な要素」
「私にとってあんたも同じように見える」
「どういうこと?」
「何かもの言いたそうにしている」
「あたしが?」
「そう、でもあんたは何も言おうとしないし、私もそれを聞き出す術を知らない」
 あたしはマオの言う意味がよく判らなかった。
「きっと知らない遠くの世界を自分の近くに置いておきたいんだよ」とマオは続けた。
「知らない遠くの世界」
「そう、あんたの生きている圏外の世界。そんな輪郭が淡い世界とあんた自身を繋ぎとめるカケラなんじゃないかな、そのバッジは」と言ってからマオは自嘲気味に笑った。「学校もまともに通ってない自分が言うセリフじゃないけどな」
 あたしは首を横に振ってそれを否定してみせた。
「あたし、なんでこのバッジを買ったんだろうって自分でもうまく理解できなかったの。でもマオの今の言葉、よく考えてみたいと感じたよ」
「それなら良かった」
「市場でこのバッジの他にもうひとつ悩んだものがあったんだ」
「なんだい?」
「クレムリンの壁のカケラ」
 それを聞いてマオは大きな声で笑った。そして店から出てきて、側面に転がっている石を持ち上げてみせた。
「うちも今日から羊肉の他にこの石でも売ってみようかな。“長城”のカケラだって」
「酔っ払いに売れるかも」とあたしも笑った。
「クレムリンはいくらだったの?」
「十五元」
「それならこれは十元だ」
 あたしは渋い顔をしてみせて買わないそぶりをした。
「五元」とマオ。
「いや一元」とあたし。
「よし一元で売った」
 マオはあたしの目の前に石を突き出した。ふたりで笑いあったその時、数人の男性客が羊肉串を求めてやって来た。客足が増える時間だ。あたしのように一本だけ買う客なんてめったにいない。
「じゃ、そろそろ帰るよ」
 そう言って六号棟へ向かおうとするとマオが呼び止めた。あたしは無言でマオの方へ振り向いた。
「さっきの感性、大事にしなよ」
「遠い世界を知りたい気持ち?」
 マオは黙って頷いた。
 あたしも黙って頷いた。

6


 この日は静かに雨が降っていた。音も立てずに地面に水溜まりを作っている。
 いつも以上に濃い灰色の空。そこから落ちてくる雫は全てのものを濡らしていく。気温1℃の雨は細い針のように感じる。
 路上に捨てられ凍えた新聞には[アメリカの単独覇権に警鐘]という見出しが躍っていた。ソビエトの死は少なからず世界のバランスを変えてしまうのかもしれない。でも、そんな大きな“うねり”があたしの小さな生活にどう影響するのかまでは判らない。今、大切なのはこのシャーベットのような路面をゴム長靴で転ばないようにうまく前へ進むことだった。

 雨はこの街の景色を少しだけ変える。バイクのタクシーは姿を消し、物乞いも屋根のある場所で息を潜める。この国と合弁で作られたフォルクスワーゲンのタクシーも暇を持て余し、クラクションの音も聞こえない。
 中央市場。入口は冷気を防ぐための分厚い透明ビニールのカーテンが短冊状に上から垂れている。それを腕で押しのけて中へ入る。雨のせいか、市場は閑散としている。
 雑貨屋の男は指切軍手をはめたまま爪を切ることに没頭していた。あたしが店の前に立っても気づかない。軽く咳払いをしてみせると、男は丸い大きな目をこちらに向け「やぁ、お嬢さん」と嬉しそうな反応をした。それはあたしにとって予想外だった。もっと事務的に対応するイメージを勝手に持っていたからだ。
「こんにちは」とあたし。
「いい天気の日に来たな」と男は白い息を吐きながら言った。
「そうね、最高の天気」
「今日は何を見たい? そうだ、ロシア帝国海軍巡洋艦の切手を入手したんだ、見せてやろう」と男は言いながら爪切りをガラスケースの上に無造作に置いた。
 あたしは肩をすくめながら「今日はお願いがあって来たの」と言うと、男は少し顔を強張らせた。次の言葉を待っているようだった。
「今度、いつハルビンに行くのかな?」とあたしは言った。
「ハルビン?」
 男の声は少し上ずっていた。予想外の方向から飛んできたパンチをよけ損ねたように目が丸くなった。
「そう」とあたし。「次、また商談でロシア人に会いに行くことある?」
 男はまるでそのあたしの質問に罠が仕掛けられているかのように、慎重に発すべき“正しい返答”を探しているように見えた。もしかしたら銃の密売の話を軽々しくしてしまったことを後悔しているかもしれない。男の目の奥に疑念と怯えが混ざり合っているのを感じて、逆にあたしは申し訳なく思った。
「来月行くが……それがどうかしたのか?」と男は怒られた子供のように弱々しく答えた。
 あたしはコートのポケットからピンバッジを取り出すとガラスケースの上に置いた。こつんと乾いた音がした。
「お願い、バッジ預けるからこの宇宙飛行士が誰なのか、訊いてもらいたいんだ」
 男はバッジを摘まみ上げるとその宇宙飛行士とあたしの顔を何回も交互に見た。まるでバッジの中の女性をあたしと重ねているようだった。
「この女性が誰だか気になってきたのか」
「うん、知りたくなってきたの」
「どうして?」と言う男の目の表情は緊張が解けいつもの柔らかな感じに戻っていた。
 あたしはしばらくその理由について考え「知らない遠くの世界についてもっと身近に感じたいからかな」と答えた。半分はマオの言葉を借りた。この宇宙飛行士の名前が判ったら、マオにも教えてあげたかった、彼女が誰でどんなロケットに搭乗した人物なのか。
「お嬢さんの言うことは判った」と言いながら男はバッジをあたしの方にかざして左右に振ってみせた。「でも彼らも知らないかもしれない」
「もちろん訊いてくれるだけでいいの。もし名前が判らなかったら、せめてバッジに刻印されている文字の意味だけでも」
 無意識にあたしの語気には力が入っていた。それに対し男は少し圧倒されるように「了解した」と短く返した。
「ありがとう」と言ってから個人的に気になっていたことを訊いた。「おじさんはこの先もずっとここで同じ商売を続けるの?」
「あぁ、もちろんだ」と男は即答した。
「でもソビエトはもうないよ?」
「お嬢さんは勘違いしている、そこになんの問題もないさ、崩壊したのはただの同盟国家の括りにすぎない。ロシアが消滅した訳じゃない、それに前に言ったろう? 混乱すればするほど面白いブツが流れてくる。この国にとっても俺の商売にとっても上向きさ」
「なら良かった」とあたしは言った。良かった。
「国が滅んでも人が滅ぶ訳じゃない。お嬢さん、これはとても大切なことだ」
「大切なこと」とあたしは繰り返した。
「将来、この市場がなくなったとしても俺が消えちまう訳じゃない。ここがなくなれば俺はまた別の場所で商売を始める、ただそれだけのこと。ソビエトの件も歴史的には大事件でも俺個人にとっては些細なことさ」
「あたしが住んでる集合住宅が崩壊しても、あたしが消える訳じゃない」
「瓦礫に吞まれなければな」と言うと男は笑った。「では、少しのあいだお嬢さんのバッジは私が預かろう、来月以降また来なさい」

7


 外語学院は今年から日本人留学生を受け入れるという内容の告知が掲示板に貼り出された。留学生だけではなく、開発区で働く日本人にも門戸を開き在校生との相互交流を活性化させる方向を打ち出した。
 敷地内には新たに留学生を受け入れる宿舎の建設が始まり、足場を組むための竹が大量に運び込まれていた。
 ソ連は崩壊後もマオが冗談で言ったような“空き地”にはならなかった。新聞やテレビニュースを見る限り、あんなに広い土地で起こった歴史的事件の割には大きな混乱をきたしているようには感じない。石を詰め込んだ赤い風船がパチンと弾けて、石はそれぞれの地面に転がり戻っただけなのかもしれない。市場の男が言うように括りが消えたのだろう。枠組みが消えてもそこで生きる人々は変わらない。むしろ解放された自由を歓迎しているようにも見えた。実際は判らない。あたしはロシア人でもないし、この目で見た事実はひとつもない。
 あたしが知る情報はこの国が語る言葉のみなのだから、情報が伝達するまでに、どれだけのフィルターがあるのかも判らない。

「言葉や文字に起こした時点でもうそれはフィルターで少なからず曲がっちまってるもんさ」とマオはあたしの疑問にそう答えた。「たとえ嘘をつくつもりじゃなくてもね」
「なるほど」とあたし。
「ましてや遠くの出来事なんてもうぐにゃぐにゃに折れ曲がってこの街に届く頃にはきっと本当のことなんて残っちゃいないよ。試しに綿菓子を持ってこの通りを端から端まで駆け抜けてごらんよ。走り終わった頃には溶けて小さな褐色の塊になってるはずだ。ソビエト崩壊のニュースだって同じさ、私たちが知る情報は小さく溶けたザラメの塊と同じようなものさ」
「なるほど」とあたしは今日二度目の相槌を打った。
「そして綿菓子の形がどうであれ、ちっぽけな私やあんたの生活に影響は何もないってことさ。たとえ溶けていないそのまんまの大きな綿菓子が手元に届いたとしてもね」
 そこまで話すとマオは焼き台の肉に香辛料を振りかけた。どんなに他のことをしていても体は自動的に反応しているようだった。コンロの熱が幾分この街の寒さを和らげてくれる。
「私はもともと内陸部の生まれでね、早くに母親を亡くして八歳でこの街に父親とふたりで来て、それからずっとこの箱にいるのさ、父親が病気で死んだあともその生活は変わらずで、みようみまねで鉄串に肉を刺してきた。本当は市に禁止されてるんだけどさ、寝泊りもここでしてるんだ」
 マオは表情を崩さずそう言った。
 じゃぁ、あたしが毎朝この道を通っている時も、シャッターの下りた箱の中でマオは身を丸くした猫のように眠っていたんだ。それはとても不思議な感覚だった。気付かれないようにそっと視線をマオの背後に向けた。床に置かれた肉の入った発泡スチロールのケースと瓶ビールの隙間に確かに毛布のような塊が見えた。でも、暖房もない小さな空間でじゅうぶんな睡眠がとれるとは到底思えなかった。もちろんトイレもシャワーもない。同じ歳ですでに両親もいなくひとりで生きるマオの生活は、あたしにとってどんな異国を想像するよりも難しいものだった。あたしは初めて自分が一片の不自由もなく暮らしてきたんだと実感した。
「だからさ」とマオは続けた。「これまでの私の人生はほぼ朝から晩までここで過ごし羊の肉を触り続けているんだ。どんなに手を洗っても染みついた肉のニオイが取れたこともないし、同世代と話したこともなかった。狭い世界、それはもう水槽の魚みたいにね」
 マオは一旦焼き台の火を止めて、あたしに羊肉串を差し出した。あたしは五角の硬貨を渡し、マオの次の言葉を待った。
「私にとって唯一外の世界を知るきっかけは新聞しかなかった。ほら、あんな風に」と言ってマオはあたしの背後の地面を指さした。そこには生ゴミが積まれて、変色しや新聞の束も置かれていた。
「あんな感じで湿った売れ残りの新聞がいつも捨てられているのさ。小便がかかっていても気にしないよ、私は毎日それを拾っては片っ端から読み漁ったんだ。それが本も買えない私にとっての情報源であって娯楽だったからね。だから今、私は嬉しいんだよ、あんたがここに来てくれるようになって、あたしの知らない話をしてくれることがさ」
 それはあたしにとっても同じことだった。遠くで圧力釜の圧縮が一気に開放されたポン菓子の爆発音が轟いた。
「あたしもマオに会えてとても嬉しいよ、だって知らない世界を教えてくれる」
「新聞はフィルターだらけだろ? 鵜呑みにしちゃいけない、それを知った上で読んでる。でもあんたは違う。そりゃあんたの言葉は薄っぺらい時もあるし無知な時もある。でも私にとって混ざりものがない真っすぐな言葉なんだ」と言うと、マオはまるで今の言葉を一旦反芻するように呼吸を整えた。「どんなに世界情勢を緻密に解説している新聞よりも、あんたとの話のほうが遥かに私の見える世界を広げてくれるんだ」
 そこまで話すとマオはやさしく微笑んだ。それは初めて見るマオの顔だった。

「私たちは友達だよね」と帰り際にあたしは訊いた。本当はもっと前から訊きたかった言葉だ。
 マオはしばらくあたしの顔を見つめてから「もちろんさ」と言い頭を優しく撫でてくれた。

8


 二月に入るとすぐにあたしは中央市場へ向かった。街はどこも春節の準備に追われ至る所に提灯や赤い飾り付けが施され始めていた。学校も十日間休みだ。気温はマイナスになる日も多いが、雪が少ないせいかそこまで強い寒さを感じない。
 六号から表通りをしばらく進むと突き当りには大きな石造りの銀行がある。飾り柱に繊細な模様が施された洋式建築で、その佇まいはこの街の雰囲気を少し厳かにしている。その昔、日本が建てたものだと父親は言っていた。銀行の入り口へ続く石段の踊り場で赤いドレスを着た女性とスーツの男性が結婚写真を撮っている。ふたりともカメラマンに向かってぎこちない笑みを浮かべている。
 その階段下の脇道に年老いた女が立っている。女はあたしが子供の頃から日中はほぼ毎日そこにいる。彼女は海外の紙幣を銀行レートより高く不法で買い取る仕事で生計を立てていた。そう教えてくれたのも父親だ。彼女の客はほとんどが経済開発区の日本人だという。子供心にいろんな仕事があるんだなと妙に感心したのを覚えている。
 ところどころで落ち葉や生ゴミを焼く煙が上がっている。アカシアの木には爆竹が吊り下げられ着火を静かに待っている。街の掲示板には梅毒の受診を促す病院のポスターが貼られている。空は灰をまぶしたような色をしていた。絵葉書にあるような青空は見たことがない。

 中央市場の入り口には旧正月を祝う横断幕が出ている。市場の至るところで春節の飾りや花火、それにちなんだ食べ物が売られ、どの店舗も活気溢れ煌びやかに見えた。いつも以上に人の数も多い。そんな中でソ連屋の男の店だけ何ひとつ変わらぬ佇まいだった。男はガラスケースの奥で仏頂面で腕組みをして居眠りしていた。まるで男も売られている品の一部のように店に溶け込んでいる。
「こんにちは」とためらわずに声を掛けてみると、男は静かに目を開けあたしの顔を確認すると右手を少し挙げた。
「来たか」と、親戚の叔父さんみたいな口調で芯の抜けたような体勢を整えて椅子に座りなおした。そして「判ったぞ、どこの誰だか」と、男はあたしが今日ここに来た意味を理解しそう言葉を続けた。
 あたしは小さな息が漏れ、口角が少し上がったような気がした。解けなかったクイズの答えを教えてもらえるように胸の内が高ぶった。男は背後に無造作に置かれていたボストンバッグの中から掌サイズのノートを取り出すと、一度指を舐めて頁をめくった。三度ほどページをめくると開いた状態でそのノートをあたしの方に見せた。

――ソ連の英雄 宇宙飛行士 / ワレンチナ・テレシコワ――

あたしはお世辞にも綺麗とは言えない男の書いた文字が連なったその一行を目で追った。
「ワレンチナ・テレシコワ、それが彼女の名前だ、俺は長年こんな商売してるくせに宇宙飛行士はガガーリンしか知らなかったが現地じゃそこそこ有名な人らしい」
 男はそう言うと、名前が記されたノートの頁を千切りピンバッジと共にあたしの手に握らせた。
「ありがとう。本当にありがとう」
「なに、お嬢さんのおかげで俺も知る機会をもらった。いいかい? 知りたいという欲は大切な衝動だ。それこそ人間の特権だよ」
 そう言って男はウィンクした。

 ワレンチナ・テレシコワ

 名を知ってから改めてバッジの女性を見ると、その名前がとても身近に感じた。真摯な表情で正面を見据える彼女はテレシコワという名が相応しく思えた。
「このことを教えたい子がいるの、同じ歳なんだけど、あたしよりずっと大人びた子。春節明けたらその友達もここに連れて来るね」
「ほぉ、お嬢さん友達いるんだ」
 男は口元をさすりながら茶化すようにそう言った。
「どうして?」
「変わり者だからさ」と言いながら男は何かに納得したかのように首を小刻みに縦に振った。「いや、誉め言葉として聞いてくれ。お嬢さんには不思議な行動力があるよ、長年商売やっていてこんな客初めてだ」
「それは『ありがとう』でいいのかな?」
「無論そうだ」と男。
「じゃあ、ありがとう」
 あたしはそう言って握手をし、踵を返し出口へ向かい何歩か歩いた時に男が慌てて呼び止めた。振り返ると男はさっきのノートをめくっていた。
「あともうひとつ俺が勝手に調べたんだがな、彼女が宇宙へ行ったのは1963年だ。ロケットの名前はボストーク六号」
「ボストーク六号」とあたしは繰り返した。あたしの住む住宅と同じナンバーだ。
「そうだ、彼女は独りでそのロケットに乗り込んで地球を何周も回ったそうだ」
「独りで?」
「そう、たった独りで」
「すごい勇気」
「まさに英雄だ。良い正月を」
 もう一度お礼を言うと両親と春節を迎える準備をするために、あたしは寄り道せずに戻った。ロケットの六号ではなく、あたしの住む六号へ。



 あたしはおろしたてのチェックのシャツの襟にテレシコワのバッジを付け、コートを着ると玄関を出て階段を駆け下り表に出た。
 春節前にそれぞれの故郷へ帰っていた饅頭を売る屋台も通りに戻ってきていた。火薬臭い爆竹の残骸が赤い雪のように至る所に積もっていることを除けば、いつもと変わらない日常が始まっていた。

 建物の裏へまわりドブ川沿いの小道を進んだ。川は変わらず浅く粘度のある汚水を溜めている。かろうじて川の体裁を保っているが、流れているようには見えない。或いは肉眼では見て取れない速度で流動しているのかもしれない。
 そんなドブ川を横目で見ながらも、気持ちは少し浮ついていた。学校へ行く前から帰り道を楽しみにしている自分がいた。久しくマオの焼く羊肉串を食べていなかった。
 道幅は少しずつ広くなる。でもその先、箱が連なる通りが前方に見えてきたがその景色はすぐに異変を感じさせるものだった。道を分断するようにあたしの背よりも高い真新しいレンガの壁が出来ていた。まるでその先を覆い隠すように。壁の端には人が通れるスペースがあったが、そこもロープで塞がれていた。
 連休中にこの道は道としての記号を失ってしまっていた。

――開発は未来への重要な力・大型商業施設予定地――

 そんな文言が立ち塞がる壁に白いペンキで書かれていた。あまりに突然のことすぎて口を開けたまましばらく動けなかった。淀んだ空だけが自由にあたしと、壁の先を跨いでいる。
 あたしは唯一通行可能になっている(と思われる)ロープで塞がれた端の場所に移動して、道の先を見てみた。
 その光景はあたしが知る記憶のものとは大きくかけ離れていた。もともと舗装された道ではなかったが、さらに全てが掘り起こされた状態で地面が遥か先まで波打っていた。かつて両端に並んでいた箱は一軒もなく、取り壊された残骸が散乱していた。人の姿は見えない。
 労働者の団結を謳う看板も取り外され、木々も伐採され切り株が点在し、各々の店で使っていたであろうガスボンベが一か所に積み上げられている。二台の小さなショベルカーが突如として時を止められたように土を載せたまま停止している。
 ここで夜も帰らずひっそり寝泊りしていたマオはどこへ行ってしまったのだろう。
 あたしは学校へ向かう近道が断たれたことよりも、マオと会う手段が消えてしまったことについて考えを巡らせた。うまく気持ちの整理がつかない。消えてしまった。友達だったのに。

 彼女は今どこで何をしているんだろう。

『八歳でこの街に父親とふたりで来て、それからずっとこの箱にいるのさ』

 マオはそう言っていた。長い間ここに彼女は留まり続けていた。新しい世界へ進むことを自ら拒むように。マオのことだから、違う環境でもうまくやれるのかもしれない。この国でおそらく平凡という枠で生きてきたあたしにはそれ以上の想像が出来なかった。あまりにもふたりの世界は違いすぎた。

『私は私のことを知っている』

 無意識に襟のバッジに触れていた。それはとても冷たく氷に触れているようだった。
 あたしはロープをくぐり抜け固められていない掘り起こされた土の上を不安定に駆けてマオのいた箱の辺りまで来た。なにか痕跡があるかもしれない、あたしに対するメッセージが残されているかもしれない、そんなある訳もない願望を少し抱いていた。
 でも――ハナから判ってはいたが、どれだけ注意深く見ても、そこには瓦礫と根元から掘り返された地面しかなかった。広大な空き地の上にあたしはひとりで立っていた。

 最後にあたしと会った日、マオはこうなることを知っていたのかな。たった十日前だ。退去命令が出ていない訳がない。
 どうして何も言わなかったのかな。
「またいつか何処かで会えるから? それとも……」
 あたしは地面の瓦礫に向かって呟いた。足元にはクレムリンや長城のカケラが売るほど転がっていた。

9

 六号棟の裏手にあったドブ川は埋め立てられ、今ではその上に幹線道路が伸びている。
 その先~マオがかつていた場所~には硝子張りの近代的な商業ビルが建ち、それまで隣町という認識だった“箱のあった場所”は、あたしの住む街と併合されてひとつのより大きな街となった。近隣には地下鉄を通す大規模なプロジェクトも動き出していた。

 外語学院を卒業したあたしは開発区に工場を構える日本の服飾資材の会社で通訳として働くことになった。毎朝八時にトヨタのワゴン車が銀行前まで迎えに来る。あたしはそれに乗り込み開発区へ向かう。
 工場ではボタンや芯地、裏地を生産し、日本へ輸出していた。あたしの職務はその工程を工場長として着任した日本人がスムーズに取り仕切れるよう現地の工員との間で潤滑な橋渡しをしたりする一方で、昼の弁当の値段交渉や工員寮の手配など幅広くこなした。衣料と貿易に関する専門的な用語を幾つか覚え、基本的な流れを把握すればそこまで難しい仕事ではなかった。しかし、残念ながら日本へ行けるチャンスは今のところない。だから、資生堂の口紅も買えていない。

 この数年で六号棟を取り囲む街の表情は大きく変化した。反発の声などハナから聞こえないようにあらゆる場所が取り壊され、新しく背の高いビルが建設されるようになった。新たな都市計画に沿って歴史ある中央市場も近代的な競技場に変わるという話も出ている。
 ソ連崩壊後のロシアは民族紛争という火種を新たに起こしていた。あたしは十代の頃と違い世界の情勢を出来る限り正確に把握することに努めていた。この国独自のフィルターを通していない日本人からの情報もかなり役立つものとなった。
 出来たばかりの幹線道路を通り開発区へ向かうワゴン車の中で、窓に頬を張り付かせながら漠然と移り行く街の景色を眺めていた。無機質で武骨な建物が静かに横へ流れていく。街も空も灰色で境界線がぼやけていた。
 両目にそんな灰色を映しながら、あたしはザラメが凝固し小さく萎んでいく綿菓子のことを考えていた。

#創作大賞2023 #お仕事小説部門


いいなと思ったら応援しよう!