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散文「FUNI『KAWASAKI2 ~ME,ME~』(2019年リリース・mew)」への応答

詩「血に不安はあるか?」

 脱出の険しい道を振り返ってみる
 それから自らの身体の調子を確かめる
 足の指の骨を鳴らす
 顔を乾いた手で強く擦ってみる
 恐ろしいような道程だったから
 汗は浮いていた
 でも柱になってしまうほどではない

 空から粛清の火は降り注がない
 青い空の高さ、あるいは深さが
 俺にとって地獄か天国か
 それとも現在か

 なにから脱出しているのか
 一言では言えない
 単数形ではない 複数形だという確信が全身に刻み込まれている
 
 険しい道程を振り返ってみる
 塩を振った焼き鳥を齧っている
 脱出の道は不思議にとぐろを巻いて
 街のようであった
 レモンサワーに塩を振って飲んだ
 暑い夏に脳がやられたのかと思った

 脱出の道が記憶の中では街のようだって
 街? どこの街?
 俺は多くの街の風景や記録をスマホのクラウドサービスから引き出して見てみた
 記録には記憶にないがたしかに自分の声が入っている動画もあれば
 記憶から抜け落ちていた巨大マンションのバルコニーの写真も残されていた
 この街がどの街なのか探した
 クラウドサービスはいくつの媒体を繋いでいるか?
 クラウドサービスはいくつの媒体を繋いでいるか?

 記憶は複数形 Memory ではなく Memories
 でも足りない Memoriesssssssssssssss…… 連綿と見えないところまで続くsは
 sheepという言葉をげっぷと一緒に俺の口から吐かせた
 sleepではなくsheep
酔ってきているんだろう

 俺は店を出た
 ここも険しい道程の一続きだ
 そんなわけないと誰かがいうかも知れない
 もっと苦しい人がいる、というかも知れない
 いるかも知れない。
 でも苦しみと苦しみを天秤にかけてはいけない、と誰かが言っていた気がするんだ
 誰?
 もしかして、街?

 酔って
 手元が狂って
 グーグルマップが開いて
 提示される現在地
 ここが現在地?
 違うよ。ここは川崎じゃない。
 いま俺は街の中にいる
 記録を塗り替える
 俺だけの記憶に。
ここがKAWASAKI


〈苦しい渇きがあるんだワンダー何故ださっきの死かも知れないけどそれとは違う根本の渇き〉(※ 音源の書き起こしであるため、聴き間違えている部分があるかも知れない。以下の引用も同様)

 このアルバムは恐らくFUNIの全てであるだろうが、同時に道中の回顧でもあると思う。それはFUNI自身がこのアルバムに並々ならぬ思いを注ぎ込んでいると同時に、まったく満足(あるいは納得)を得ていないだろうと考えられるからだろう。
 個人史、川崎の風俗、在日コリアンとしての自我、基督教、そして脱出……概ねこのような要素が複雑に混じりあってアルバムは成り立っている。冒頭には在日大韓基督教会川崎教会の金建牧師(2018年5月11日逝去)の前夜祭から始まる。
 このアルバムを聴くに連れて、明晰な言葉で書くことは恐らくできないという予感がずっとあった。それはFUNIが立ち向かっている問題の複雑さを現わしているだろうし、何よりアルバム自体が先ほど言ったような意味において道半ばだからであろうか。
 ともかく『KAWASAKI2 ~ME, ME~』には安定した立ち位置から明晰な言葉を投げることは難しい。アルバムに応答するこの言葉自体が不安を抱えて移ろいながら書いてゆくことしかできない。

 このアルバムを聴きながら思い出すのは、ジョイス、メカス、青野聰のことだ。
 ジョイスは『ユリシーズ』における克明な描写によって同時代のダブリンを再現することを構想した。反してFUNIは実際の川崎にある(あった)街の音や人の声をSKITに用いてKAWASAKIという精神力の街を立ち上げてみせた。そしてその街の周遊は時折脱出するべき地獄巡りの様相を見せる。

〈俺の言う川崎って場所のことじゃないんだよ多くの人が生きづらさから抜け出せないでどん詰まって腐ってく。発狂する。消えてく。そんな地獄でも希望はあるんだと、光はあるんだと、それでも前向きに宿命に抗う精神力のことを俺はKAWASAKIと名付けてるんだ〉(アルバムのPR文より)

 メカスと青野聰に共通するのは難民性だ。
 メカスはリトアニア生まれで時代に揉まれながら弟とともにアメリカに船で渡った実際の難民である。
 青野聰は青野季吉と松井松栄の間で生まれ、正妻みづほと共に在住するという複雑な環境の中で松栄は二歳の頃に死去。六歳の頃に継母との同居生活を始め、昭和三十五年に青野籍に正式入籍する複雑な環境で育った。作家となって以後、存在としての母を求める作品を多く発表した心の難民であった。
 FUNIは住む場所を追われるような者ではなかっただろう。けれど心の難民と言いたくなるのはFUNIが常にどこかに場所を求めるように動いているからだ。そして、その動きの中には移動を楽しむような気楽さはない。トリップではなく、まさに常にエクソダスの状態を意識して動き続けていることが重要な視点だろう。

『KAWASAKI2 ~ME, ME~』を聴くうち、不意に「血に不安はあるか?」という言葉が浮かんできていた。
 個人的なことを言うと、私の祖父は朝鮮人で詳細は省くが、要するに私にも色々な血が流れている。そして、そのような事実は二十歳を迎えるまで知ることはなかった。それが幸福か否かは到底分からないし、その辺りの背景を語らずに祖父は亡くなってしまった。父もあまり語ろうとしない。
 私は血や人種や肌の色は何も関係ない、とは思っている。でも背景や歴史、国民性は多様で、それ故にぶつかりあうこともある。その衝突にも前向きに抗う精神力を見せてくれる作品に出会えたことに感謝したい。そして衝突もあるが、同時に抱きしめあうこともあることを決して忘れてはならない。

 みな心のうちに難民を抱えている……そのことを『KAWASAKI2 ~ME, ME~』は教えてくれる。


初出
2020年頃に発刊した個人詩誌『henzai vol.2』(羊目舎)より転載。

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