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それでも靴を脱ぎ捨てる
寂しげな浜辺に置かれたピアノとどこか遠くを見る女性、ピアノの上に座りながら女性をじっと見る女の子。シンプルで、それでいてこちらへ腕を伸ばしてくるような力強さを持ったポスターの画像を見たとき、「見に行かなきゃ」と強く思った。
![](https://assets.st-note.com/img/1726311853-VDRSIF9doerucX31LOsyGW50.jpg?width=1200)
「ピアノ・レッスン」という映画だった。タイトルだけ知っていた。次の日の10時から一度だけ上映があり、急いでチケットを予約した。予告編を見ると、音楽がものすごい勢いで体に入ってくるような感覚に襲われた。この音楽を映画館で映像と共に浴びた時、わたしはどうなってしまうんだろうとさえ思った。
主人公であるはずのエイダの声は、最初と最後以外聞こえてこない。結婚相手を決められ、娘とたった二人で知らない土地へと降り立ち、自分そのもののようなピアノは土地代として売られ、怒りや困惑の表情を浮かべるエイダ。観客は注意深く彼女を観察する。作中の他の登場人物のように。その観察はもちろん、エイダに言葉がないから、彼女の一つ一つの表情を見るための行動だった。しかし、私はエイダの観察者でありながら、エイダ自身になっていくように思えた。
劇中では波の音が多く使われていた。波は流されるものを想起させるが、船を漕いでいるとも考えられる。エイダは愛する人も、どこへ行くかも、何を演奏するかも、何を言わないかも、自分で決めて生きている。エイダに対して、あまりにも不器用だ、思う瞬間は何度もあった。あの時代に使われたスカートのワイヤーがなんだか象徴しているように思えた。ワイヤーのはったスカートで、エイダはいつも動きにくそうだった。
それでも、彼女は自分を生きる。波よりも速いスピードで変化しながら、海の静けさに耳を澄ませる。
私がいわゆる若い世代の女性で、世間では女性の権利や地位向上の話をたくさん聞く。正直、こんなこと言っていいのかもわからないが、人生について考えたいときに性別の話をされると困惑してしまう。人生と性別は切っても切り離せないのに、わがままで自分勝手な考えかもしれない。
「ピアノ・レッスン」を宣伝する文章にはそういった言葉がたくさん出てきた。自立とか、女性の生き方とか。間違ってはいないと思う。でも、私は「ピアノ・レッスン」のエイダを見ている。6歳で話すのをやめた、小さな娘のいる、望まない結婚をした、その先で本当に愛する人を見つけた、すべてを自分で決めていく人の人生を見ている。「自立した美しい女性」なんて言葉で彼女を説明した気にならないで欲しいと思った。
以下、ラストシーンに言及しています。
この映画を見てよかったと強く思ったシーンの一つはラストの「なんという死!」という声だ。一瞬、ここで終わりかも、とさえ感じた。ピアノと共にすべてを終えるのかもしれない。そういう終わり方も好きだ。ただ、エイダは生きるために靴を脱ぎ捨てた。自分を海の底へと引っ張る、明確な死の方へ向かうロープから抜け出すために。
その一瞬の死でさえ、彼女の人生の一部になる。一度の死を経験したエイダは、自分で決めた人を愛しながら、話すことさえ始めながら、死を覚悟したときの音を思い出す。人間の生き方だと思った。エイダは人間で、女性で、おそらく“精神的に自立”しているのだろう。エイダに出会えたことが嬉しかった。
ピアノ・レッスンを見てから、ぼんやりとその余韻の中にいる気がする。忘れていても、思い出すたびにあの余韻に戻ることができる。波の音を聞くことができる。
![](https://assets.st-note.com/img/1726312592-vdNuEiYGFCr9TRwohtZ0kApy.jpg?width=1200)
ピアノ・レッスンに、心のどこかを置き去りにしている。