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vol28 個性を重要視することに意味はない

海外を習ってか、日本には個性を伸ばそうという風潮があります。
コーチング事業が伸びているのが、一つの根拠とも言えるでしょう。

ただ、ある大きな勘違いをしています。
それは、個性なんてあってないようなものだ、ということです。

いや、正確に言うと個性はあるんですよ。
あるんですけど、あくまで組織や集団に所属したうえで生まれるものであって
個人単体で、個性なんてものは生まれません。

現代で言われる個性には、どこか個人独自の強みや特性のようなニュアンスが含まれています。
すごく身勝手ですよね。
言い換えると、すごく自分という存在に固執している風に見えます。

そもそも、人間はすごく社会的な存在です。
どこかの社会に所属して初めて、自己を認識することができます。

右があるから左があるように。
他人がいるから、自分がいる。

自分だけを見つめても、自分は見えてこない。
周りにいる他人を見て初めて、相対的に自分という存在の輪郭が見えてくるのです。

他者を見て初めて自分が分かる。
だからこそ、自分を過度に重要視する風潮にはどこか矛盾を感じてしまいます。

にもかかわらず、なぜ自分を重視するのでしょうか?
その重視した先に何があるのか、ここを考えず個性の尊重をうたって何をしたいのでしょうか?

僕にはうまく理解ができません。
あくまで先に捉えるのは「どこの社会に所属するか」です。
そしてこれは、尺度の問題になります。

僕たち人間はこの地球上の社会に所属することは生まれた時点で決まっています。
日本に生まれた時点で、「世界」という存在と協力は不可欠です。

なぜなら、先進国としてあらゆる恩恵を受けているから。
衣食住は自分以外の何万人という存在が関わって成り立っています。
それが当たり前の社会、それが日本です。
そこから抜けることはできません。

なので、所属する社会は限定的なのです。
残りの変数は捉え方のみ。

「世界」に所属していると捉えるのか
「日本」に所属していると考えるのか
「東京都」に所属していると捉えるのか
「町」に所属していると捉えるのか
「会社」に所属していると捉えるのか
「あるコミュニティ」に所属していると捉えるのか

この捉え方の数だけ「自分」は存在するのです。
だって、「自分」という存在はは相対的だから。

社会に対する尺度次第で関わる人間の数も性質も変化します。
だから、それに対して自分も変化するのです。

自分という存在は普遍的じゃない。
可変的存在なのです。

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