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「なんとなく」で生きてんのかい


皆さんは、頭良くて、お行儀もいいと思うので、こんな事言わないと思うし、というか、言う必要がないと思うので、代わりに言いますね。

自己紹介も兼ねて、言います。


悔しいんですよ。僕、音楽、めちゃくちゃ大好きなんですけど、軽々しく「音楽が好き」とは、言えないんです。

それは、僕にとって音楽は神聖な物で、聞くには覚悟が必要で、アーティストが練り込んだ熱を、出来る限り受け取りたいから、歌詞を聞いて詩の世界にグッと入ったり、息継ぎのタイミングから意図を汲み取ろうとしたりしているので、あんま気軽に聞けません。なので、好きだと言えるほど、聞いてません。そもそも、誰かと共有する為に聞いてません。なので、適当に好きだとは、言えません。

で、「音楽好き?」と聞かれたので、仕方なく、そう答えると「いや真面目か」とか「耳心地で良くない?」とか言われます。逆もあります。軽々しく「好き」を言うと、自分の方が好きだかなんだか知りませんが「そんなの好きに入らない」とか言う奴も現れます。うっさいです。「へぇ、そうなんだ」で良くないですか?その先は、個々人に任せて「ほっとけよ」です。

こんなアホばっかりです。


正直に言いますね。僕、人に嫌われるの、怖いです。死ぬほどに。

それなりに良くない家庭環境で育った事も関係しているのか、それはもう、どうしようもない程に、怖いです。ただ、いちいち「嫌われたくない」とか言えないので、どうにか自己完結で、恐怖を失せないか、試みました。その結果、自分なりに恐怖を失くす方法を見つけました。

あと、取り返しのつかない程、幸せで居続けたいです。

それはもう、どうしようもない程に、幸せで居続けたいです。満たされてこなかったからか、腹が減った動物のように、欲望にまみれています。ただ、嫌われたくないと同様で、いちいち「幸せになりたい」などと、言葉に出来ないので、様々な方法を模索しました。で、幸せで居続ける方法も見つけましたし、幸せじゃなくても幸せだと思える方法も見つけました。

でも、結局のところ、変えらたのは、表面上だけでした。もっと奥の奥から、この邪な感情を消し去るのは、無理でした。何年も何年も掛けて、精神論から、ワークアウト、宗教、哲学、学術書、色々と手を打ちましたが、6億%無理です。無理でした。

嫌われたくないと、幸せでいたいは、核に彫刻刀で掘られた、業だったので、それが僕でした。

それを、気安く「嫌われたってイイじゃん」なんて適当こく奴は、死んでください。



なので、僕は、嫌われない為の行動を取ります。

まず「カッコ悪い=嫌われる」と、思っています。人前で屁を放く事すら、躊躇します。極力、鼻くそすらホジクりません。正確に言えば「この人はもう嫌わないな」という安心感がある人の前では、放きますし、ホジクります。でも、そうじゃなきゃ、放きませんし、ホジクりません。カッコ悪くても嫌われない、愛を人に求めています。

あと、全員から嫌われないように、周囲の目を伺い、余計な気を回し、先回りして未然にトラブルを防ぎ、誰かと誰かの揉め事をなくす事に、命を使います。必要とされないと、自分を保てない勘違いを、よく起こします。なので、忙しくて疲れます。手放しで「人生最高」なんて、思えません。そのような行動をとり、やっと、自分が自分を許してくれます。

僕は、嫌われない為に、カッコをつけます。みっともない部分は極力、見られたくないです。

裏腹に、弱点を恐れず、表現できる人たちに憧れます。勇気づけられてしまいます。なので、自身の羞恥心や弱点に向き合い、恐怖に争い、底を見せれる人間になりたくて、エッセイを書いています。

すると、勘違いを起こします。「まじか、ここまで出せるおれの文章、凄いんじゃないか」と思いだします。どんどん目がキマリ、気が大きくなり、文豪ぶります。描写力がどうとか、言語化がどうとか、難しい事を考え始めます。気付けば「美しい文章や、文豪チックな方が売れそうだな」という、1番カッコ悪い理由で、文豪します。そして、後々記事を読み返してみると「何してんだコイツ」と、恥ずかしくなり、後悔します。

そんなに悩む必要はなく、単純に「自分が好きな事を書けていれば、それだけで良いじゃん」と思いたいのですが、簡単には思えません。表現で、飯を食って行きたいからです。表現だけで、褒められて、認められて、讃えられて、自分を好きになれて、誰かを救えて、そして金になって、年に数回、経費でアフリカとかに行きたいです。野生のキリンとか見たいです。

そういう未来に憧れ、自分に期待し、行けると思い込んで臨んだコンテストに落ちて、凹みます。イライラします。いくら書いても、全然結果に繋がらず、焦ってます。あと、腐ってます。

最近、思っているのは、人の作品を読んでも「全然面白くない」って事です。何も響きませんし、一向に、魂に到達して来ません。だから、読みません。そうは言いますが、読んでる余裕が無いだけです。あと、読んでも、圧倒され、インスパイアされ、共感し、途中で本を閉じ、気づけば、書き始めています。ブン殴られてダウンする自分に向き合いたくないので、読みません。

いつのまにか、人の作品を純粋に楽しめなくなりました。あんなに好きだった、救われてきた作品を、あんなに憧れてきた表現者たちを、全部、勉強や参考などという目で見て、楽しめません。クソみたいに、楽しくありません。あの頃の、綺麗な目で、ピューと吹くジャガーを読んでいたおれは、どこかに消えました。死にました。

そんな事を繰り返し、落ち込み、書けなくなり、二の足踏んでると「やりかた間違ってんじゃねえかな」や「向いてないんじゃねえかな」と震えてきます。恐れてきます。

結局は、世の中、数字です。数字を集められない僕は、禁断の果実に手を出します。別に、面白いと思っていないのに、数字を持っているだけの人にコメントをしに行きます。心にも無い「面白いですね」を言い、興味を持ってもらい、見返りに僕の作品を広めてくれという気持ちで、コメントをしに行きます。

また、仲良くなれそうな人には、救いを求めてコメントをしに行きます。そこまで思ってない「面白いですね」を言い、興味を持ってもらい、売れない辛さや、孤独から救ってもらおうという下心で、コメントをしに行きます。

さらに、その人たちのフォロワーからも、面白いと思って貰おうと、計算してコメントをしています。下心も下心です。

そんな果実に魂を売ったのに、なにも成果がない自分がキモすぎて、嫌になり、1度、全部のフォローを外しました。気持ちはスッキリしたものの、信じられない程、フォロワーが減り、いいねもインプレッションも、もちろん減って、気が滅入りました。びっくりしました。でも「信念でした事だ、悔いはない」と悲しみを押さえ付け、投稿直後、すぐにいいねのページを見に行っています。無理でした。それでも何クソと、ふんどしを締め直し「もうこんな数字に振り回されないぞ」と通知をオフにし、トイレに入るたび、いいねの欄を見に行っています。無理でした。

もう一度、筆を置き、改めて考えます。「苦しいのに、なぜ表現がしたいんだろう」と。でも、脳に媚びりついた、憧れた表現者たちが「好きな事を続ける事が1番だ」と「それを超えてからが本番だぞ」「そんな手前で折れてるようじゃダメだ」と脅して来ます。やるしかなくなります。だから、憧れはクソです。

嫁からは完全に趣味だと思われてます。「趣味じゃない、夢だし、覚悟をもってやってる」と言っても、鼻で笑われます。なので、よく泣いてます。期待すらして貰えないのが悔しくて、トイレに篭って泣いてます。それすら、鼻で笑われています。でも、それを分かって始めたので、やってます。

心がボロボロです。「センスがないし、もう辞めた」言えれば楽なのですが、今度は「逃げた自分を攻める」とかが待ち構えており、簡単には辞めれもしないです。

どうすれば売れるか、考えます。自分なりに考えた結果、分かり難いんだと思います。そもそも、エッセイって他の表現に比べて、分かりにくいです。直感的な絵や動画がある訳じゃないし、読むにも時間が必要です。だから、わかりやすく、共感して貰えるように、興味を持って貰えるように、プロフィールに自己紹介を書き、ロードマップを固定記事にし、興味を持ってもらうのが吉です。冒頭で人が離れて行かないように、結論から書くのが吉です。でも、シャバいです。そう言ってくる遠藤がいます。肩書きをつけた方が、人の目に留まり、整理され、入り込みやすいので、見てもらえると思います。書いた方が良いです。でも、シャバいです。そう見張ってる遠藤がいます。どうしようもないです。


このように、思ってる人は、結構多いんじゃないかと思ってます。人間がそんな綺麗に作られてる訳ないので、みんな「こんな事言ったら嫌われる」とか、「こんな事言う意味がない」を知ってるから言わないだけだと思ってます。てか決めつけますが、そうです。だから言わないんです。

仮に言おうもんなら、さも、自分は成功した風の奴らが集まり「そんな嫌な事言うのはよくない」と指図して来ます。すぐ啓発して来ます。奴らは、素直に聞いた人たちの人生に対して、何も責任を負いません。他人のことなと知る由もなく、自分の成功体験を「どうぞどうぞ、私がイニシアチブを握るために、使ってください、布教してください」といった態度で、指図してきます。それを知っているから、だから、言わないだけです。


でも、何時間も掛けて書いたものを、アップロードするからには「バズってくれよ」「もっと見てくれよ、おれのエッセイも面白いよ」って思っているはずです。

なのに目の前の海には「今日の空、綺麗で心が洗われる、明日も良い日でありますように」みたいなカス記事にいいね!が押されています。好んでいいね!を押してる奴がいます。それらを見て「いいね!じゃねえよ」って思ってます。「何も良くねえだろ」って思ってます。

「恋愛って1人のものじゃないから、2人で育むものだからみたいな」のような、誰でも知ってる擦られたゴミ意見に「いいね!じゃねえだろ」って思ってます。


やっぱりこの世は、不平等です。表現の世界は、不平等です。世の中の苦しい事から救われようと、悲しみや怒りを出して、せめて金にしようとしてんのに、いいね!も無くて、なのに、楽しくて仕方なく、表現なんかするつもりもないのに、たまたま出したら、金になる奴がいます。

そりゃあ「海が綺麗。綺麗な色のカクテル、青にはオレンジとレモンが合う」3万いいね、7800リツイート。「じゃねぇんだよ、アホカス!」って思います。

こっちは出したくもない、汚ねぇ部分晒して、削れながら必死に生きてんのに「レモンが合う、いいね」なんて見たら、頼むから死んでくれって気持ちになります。張り裂けそうになります。

まぁでも、この毒が、否定されるのも分かります。だって自分で選んだ道だし、売れない原因は自分にあるから、否定の意見も理解出来ます。完全に逆恨みなので。こんな奴が勝手に嘆いても、読み手は、知らない奴の事を詮索してる時間なんて無いですし、構ってらんないです。分かります。




でも、でもですよ。怒りが、悲しさが、その人の根本にある熱だとしたら、その人の唯一の個性だったら、簡単に否定出来ますか?

「自己顕示欲とか飢えはダメ」「自己肯定感の低さが悪い」って簡単に言いますけど、んなこと皆知っていて、それを治そうとしてるけど、治せなくて、苦しんでる奴らがいっぱいいるんじゃないんですかね。

それでも、この世界の多数に合わせる為に、謙虚に慎ましく、自分を殺して生きれば良い、と目を見て言えますか?なりたくもなかった、少数になってしまったのに、気付きたくもなかった事実に、気付いてしまったのに、それでも多数に合わせなきゃ、いけないと思いますか?

だったら、治さず、生き辛く、それで成功しないと、そのままの自分で、勝ち切って、そのおかげで幸せになれたと思わないと、ただ、否定されただけの人間になってしまいます。

だから、生き辛さで勝ってやります。生き辛さで飯食ってるやつは、いっぱいいるかもしんないけど、自業自得の生きづらさに飛び込んで、それで飯を食ってやります。そう思ってます。



あの頃の、満たされなかった自分を、満たしてあげたいです。あの頃の、満たされなかった自分がいたおかげで満足出来てるよ、と言ってあげたいです。

同じように、変わりたいのに変われなくて苦しんでる奴に、変われるのは余裕あるやつの嗜みだとか思ってしまう腐った奴に、「結局、治さなきゃ成功しない」なんて言いたくないです。

惨めて、汚くて、みっともなくて、でも、それが個性だと、受け入れてあげたいです。その嫌いな個性を出す事を、恐れて欲しくないです。恐れたくないです。

だから、見てください。無視しないで下さい。



こんなことを言えるのが、僕の良さです。
苦しみが、面白くなるのが、僕の商品価値です。

やっぱり、この世は不平等です。それなりな家庭環境で育ち、割と大変な幼少期でした。なのに、道端にいる姓名判断師みたいな奴に「晩年も苦しみます」と言われました。なのに、まだ苦しまなきゃ、褒められません。で、苦しんで、出して、褒められても、まだ売れません。伝わりません。見向きもされません。なんでなんでしょう。

僕、全然いい奴です。ウミガメとかに優しいです。そっと手助けします。シュミレーションはできてます。いつでも準備はできてます。あとは見つけるだけです。

ゴミだって拾います。拾ってベルマーク集めて老人ホームにでも、寄付します。趣味レーションはできてるし、いつでも行けます。

神様、そろそろ頼みます。



で、改めて思います。

どうやらみんな「なんとなく」で生きてます。こんな思い詰めてません。

音楽の聴き方にしろ、SNSの使い方にしろ、生き方にしろ、こんな真面目に考えてません。「なんとなく」で生きて、それなりに幸せにしてます。


「いや、なんとなくで生きてんのかい」


それなら最初から言ってよ、と思います。何もかも分かった顔して、自信満々に肩で風を切って歩いてますけど、「なんとなくで生きてる」って教えといて欲しかったです。人生に、理解ある風に映さないで下さい。



とまあ、戯言をまとめてみましたが、結局のところ、どうやったら人気になれますかね。それが知りたいだけです。

靴でもなめたら、好きになってくれますか?全然舐めます。

多分ですけど、今のうちに、僕の事、フォローしといた方が良と思います。割と仕事とか出来るタイプなので、最後には、捲ると思います。

改めまして、これが、遠藤ビームです。何卒、何卒、宜しく御願い致します。


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遠藤ビーム
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