誰にも伝わらない幸せを「幸せ」と呼ぶ
説明の付かない「なんでそうなったんだろう」が、自分の中にある。
札幌観光の夜、暇になったので、歩いた。腹も減ってないし、酒もいらない。する事がない。どうしよう。もったいない。ただただ、街を観察する。
僕は、狸小路商店街を、7から1方面に向かって歩いた。商店街の中には、見慣れた全国チェーン店に紛れて「これぞ商店街」という激安個人経営の靴屋や、「狸小路」だからという単純な理由で描かれた、タヌキ型のキャラクターの旗が垂れ下がっている。商店街が、商店街らし過ぎて、テンションが上がって来た。僕は、3丁目を右に曲がり、すすきの方面に向かった。
この街の夜は、エロい。一番目立つ壁に、はだけた胸元、シルバーアクセを携えたホストの写真が飾られている。やたらめったら「心」や「恋」を使った源氏名。面白い。一番目立つ街角には、シンプルにエロい女が立っている。ねじれた肩紐。「それはブラだ」と思う。良い。パンパンに風俗店が詰まった怪しげなビル。1階には無料案内所が、3店舗も入っている。首を上に傾け、看板を見上げる。黄ばんだ白に、明朝体の黒文字。呼び込む気が無さ過ぎる。nice。ベタなドクロTシャツに金の極太指輪だらけの男、細い女の腰に艶かしく手を廻し、歩きにくいはずなのに、さも「日常」みたいなイキリ顔で歩いている。good。それらを、ニッカのおじさんが見下ろしている。なんてエロい街だ。
22時台にもなると、酔っ払った人間で溢れ、全員、幸せそうにしている。
札幌には「夜パフェ」という、不純極まりない風習があるらしい。このまま行くと、札幌が肥満に埋め尽くされる日が来る。これがシンギュラリティだ。パフェ屋には、この時間でも行列が出来ている。なんて街だ。列を見た嫁が「行きたい」と言って聞かない。僕は疑問に思う。なぜだ。だって、19時にジェラートを3つずつ、食べたではないか。止めようにも、彼女に正論は通用しない。おそらく彼女は、糖尿を目指しているのだ。有名な糖尿選手に憧れているに違いない。
困った。僕は、甘いもので頭が狂いそうである。せめて軽いしょっぱを挟みたい。「頼む、一旦ザンギ、食わせてくれ」と懇願した。小競り合いの末、嫌がる嫁を横目に、唐揚げをテイクアウトした。10分後、揚げたての唐揚げが入った袋を持ち、時計台まで歩いた。すすきのの、エロい香水の匂いに加え、下から唐揚げの匂いが登ってくる。香ばしい。
時計台の下に、ベンチがあった。「ここにするか」最寄のセイコーマートで黒豆茶を買い、時計台を見上げながら、唐揚げを食べた。
嫁と顔を向かい合わせて言った。「多い」流石に、8個は買い過ぎた。もっと一口サイズだと思っていたのに、一個がでかい。ルービックキューブくらいある。どうしよう。このあと「夜パフェ」に行かなきゃならない。嫌だ。でも、せっかくの札幌だし、夜パフェしないと、札幌じゃない気持ちは分かる。旅に来ると、取り逃したくない欲が、強く湧いてくる。体は「何も食べたくない」と言っているのに、止められない。悔しい。
「なんでこうなった」散歩を始めた時、全く腹が減っていなかったのに、今、時計台の下のベンチで、デカい唐揚げを8個食べ、この後、意地でパフェを食べようとしている。
僕は、iPhoneを取り出し、眉間に皺を寄せて唐揚げを頬張る嫁と、タルタルソースのかかったデカい唐揚げ、札幌の時計台を、1枚の写真に収めた。
なぜか、この瞬間を切り取っておきたくなった。
僕がふと「幸せだなあ」と呟くと、嫁の頭には「?」が浮かんでいた。嫁が正しい。確かに、幸せっていうのは、もっとパワーのある瞬間に起こるはずだ。広辞苑にも「幸せとは、その人にとって望ましいこと。不満がないこと」と書いてある。この満腹感は望ましくないし、この後のパフェには、不満しかない。5年後、この写真を見返しても、思い出せない程、意味不明な瞬間だ。「なんでこんな写真撮ったの」と怒られそうなほど、嫁は気の抜けた顔をしている。
でも、なんだか「幸せな気がした」のだ。
わからない。これのどこが幸せなんだろう。
幸せについて、よく考える。
「幸せって何?」と考えるのだが、いつまで考えても、堂々巡りで一向に進まない。もう答えを諦めたいが、諦められないのは、僕が、幸せじゃないからなのか?
幸せな瞬間を言語化するのは、難しい。
だからこそ、人の幸せに興味がある。みんなが何に幸せを感じるか知りたくなり、全国調査の「幸せな瞬間ランキング」を検索した。
1位「おいしいものを食べているとき」
2位「寝ているとき」
3位「恋人と一緒のとき」となっている。
絶対に、そんなわけはない。それはそうなのだが、たった10数文字で伝えられるほど、幸せは単純じゃないし、どうも、普通の事を、軽弾みな瞬間を、幸せと言うやつは阿呆過ぎて、信用ならない。「このランキングはダメだな」ケチをつけて、ブラウザを閉じる。
たぶん、自分が、自分を幸せにしてくれないんだろう。考えもしないで、悩みもしないで、適当な「幸せっぽい」事を「幸せ」と言い切る阿呆を見下している。「お前は、そうなるなよ」と、厳しく見張る自分がいる。もはや、幸せになっちゃいけないとさえ、思っているのかもしれない。自意識過剰。
ただ、思い返してみると、札幌で起きた幸せの現象には、しっかり1位と3位が含まれている。言葉に出来ない「幸せっぽい」を「幸せ」って言ってしまった気がする。難しい。でも、絶対、そんな単純な幸せじゃない気がするのだ。
インドネシアに行った時、20数匹の野犬に囲まれた事がある。
バイクで好奇心の赴くまま運転していたら、田舎道に迷い込み、ウォーキングデットの速度で歩いてくる犬に囲まれた。のそのそ、のそのそと、全方位から来る。終わった。死んだ。まさに8方塞がり。付け焼き刃の知識の「狂犬病」が頭に浮かぶ。狂犬病にかかった犬に噛まれると、顔がただれ、ヨダレが出る。危険すぎる。後ろに乗る嫁の顔を見たら、戦慄していた。死に物狂いで、逃げた。怖すぎて覚えてないが、明らかに野生の犬種じゃないのも混ざっていた。ゴールデンレトリバー・アフガンハウンド・ボルゾイ。もはやそこは、つくばわんわんランドだった。
台湾の離島に行った時は、スコールで携帯が水没し、使えなくなった。「まあしょうがないか」と渋々諦め、逆に興奮状態になったら、今度はパスポートを失くした。旅の予定は全部潰れ、警察の厄介になり、観光どころじゃなくなった。英語すら通じない台湾の田舎警察。必死に伝えようにも、繊細な思いは伝わらず焦る。飛行機に乗れない可能性すらあった。どう考えても、馬鹿だ。
これらの出来事は、幸せじゃないはずだ。
でも、なぜか思い出すと「幸せ」な瞬間に変換されてしまっている。
全国幸せな瞬間ランキングから勉強した、軽率な幸せな瞬間とは全く違ったし、なんか誰かと繋がれているみたいなありきたりな話でもない。
誰にも共感されない「幸せ」。
日常には、幸せでない時間がある。悔しいが、山程ある。自分のせいじゃない幸せじゃない事や、出口の見えない幸せじゃない事もある。
それを幸せに変えれたら、それこそ、とても幸せな事である。模索してみたが、まあ、なかなかない。
でも、僕にとって「旅」は良い線まで行ってる気がする。海外となると特にだ。下調べして、行ってみたら違って、文字が読めなくて、言葉が通じなくて。もう忙しすぎて、幸せだの、不幸せだのを、考える暇がない。
現実離れした旅であればあるほど、現実の辛さが、幸せじゃない瞬間が、幸せのためのように思えてくる。
僕は、それを「幸せ」だと決めた。
世の中に、答えはないというが、僕はあると思う。
世の中に溢れている、答えらしき物を、答えにするのは自分でできる。
だから、吐きそうになりながら食べる夜パフェも、激安個人経営の靴屋を見つける事も、ドクロTシャツの男が細い女の腰に手を廻して歩くイキリ顔も、狂犬病になりそうな恐怖も、帰国出来ない可能性も、僕が「幸せ」って言ったんだから、それは幸せなのである。
まあ、こんなわけのわからない瞬間を、幸せにしてしまった報いか、えらいもんで、大きな幸せはよく感じ取れなくなってしまった。
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