2017年春 ウクライナ旅
大好きな旅行のことも文章に残しておかないと、すっかり忘れてしまう。
段々、コロナ禍前の記憶も薄れているので、なるべく書き溜めておきたい。
2016年夏、ロシアに滞在をしてから、ずっと思っていたのが、もっとロシアや旧ソビエトの国々を訪問してみたいということだった。ユーラシアの国々は陸路で国境を越えることができるから、大学の長期休暇を利用して、ほぼすべての旧ソビエトの国々へ行きたいと思ったのだ。
そんな中、2016年11月に私は衝撃的な値段の航空券を見つけた、羽田~モスクワが往復3万1020円だった。半年後だったが、行くしかないと思い早速予約をした。
せっかくヨーロッパへ行くのだから、私はキエフに行ってみたかった。ソ連時代から美しい街と言われていたその街を一目見ておきたかった。
一緒に行く友人とルートを練り、ロシア~ウクライナ~モルドバの周遊ルートの予約をして、旅に備えた。
旅の始まりはモスクワ
旅の始まりはモスクワだった。東京から30時間程度かけてモスクワ着いて一泊。翌日、モスクワを歩く。半年ぶりの赤の広場にときめく。やはりモスクワは都会だ。ちなみに旧ソビエト諸国へのアクセスは、モスクワが便利である。東京から日本各地への航空便・新幹線が走っているように、モスクワから各地へのフライト・寝台列車の数は多い。当時はアエロフロート・JALのモスクワ便に乗ればどこへでも乗り継ぎができたのだ。
今回の最初の目的地はウクライナのキエフ。クリミア侵攻の後に、露宇間の航空便はすべて停止していたので、鉄道しか選択肢はなかった。(当時、航空便はミンスク経由が一般的であった)
モスクワ・キエフスキー駅からオデッサ行きの寝台列車に乗り込む。
※ロシアによるウクライナ侵攻後、鉄道の運行はもちろん止まっている。
寝台列車はウクライナ鉄道の車両であった。ソ連時代の車両を利用していて、行先表示にはなぜか日本の100系新幹線が描かれていた。
二等寝台に乗り込むと、同室はウクライナから親戚を訪ねているという老婦と東部で農園を経営しているというロシア人のおじさんだった。
私たちが日本人だとわかると、チャイを振舞ってくれた。
列車は南に向かって走っていく。ソ連時代の車両は薄暗い。
深夜にたたき起こされて、ロシアを出国し、ウクライナに入国する。ウクライナ兵は「Welcome」と私に言うやスタンプを押してくれた。あっけない審査だった。それと比べると、同室のロシア人に対しては辛辣だった。入国目的や仕事などを執拗に聞いた上、荷物をすべてひっくり返して調べていた。彼もかなり嫌味を言っていたが、私はこれが戦争中の国なのだと悟った。クリミア併合以降、ロシア人は招かれざる客であった。
翌朝、老婦はソ連時代にずっと働いていたが10万しか貯められなかったと、彼が通訳をしてくれた。ソ連時代はKGBもあってひどい時代だったと。私たちは何も言えなかった。
ウクライナの首都 キエフ
キエフに到着した。まだ冬空の曇りの日だったこともあるが、モスクワと比べて、暗く感じた。
キエフは美しい街だった。街にはいくつもの教会・聖堂があって、さすがルーシの祖となる街だと感じられた。
教会巡りはどこも楽しかった。中でも聖ミハイルの黄金ドーム修道院の繊細な美しさが心に残った。水色と金色が可愛くて一目ぼれをしてしまった。
トラムや地下鉄に乗ったりしたのも楽しかった。ソ連の地下鉄とあっと、モスクワのように装飾が素晴らしい。薄暗いので治安が心配だったが、何も起こらなかった。キエフはモスクワと比べると照度が低い。経済状況が全く異なっているのだろう。
食事も美味しくて、キエフ風カツレツやボルシチはもちろん、カフェのレベルが高かった。ロシアより、比較的英語が通用するし、ここはヨーロッパだと思った。とはいえ、私たちが話していたのはロシア語で、ウクライナ語で話しかけられることもなかった。ロシア語世界だった。
とはいえマイダン広場(独立広場)には、活動家が陣取っていた。クリミア併合からちょうど3年後の3月だった。複雑な国だと思った。
そのあとに訪れた、ソ連時代に建てられたウクライナの祖国の母像は巨大でここがソビエトだったことを示していた。永遠の炎やソ連の戦車の展示もあり、英雄都市キエフを感じた。
キエフではぬいぐるみを来たぼったくりのお兄さんとも話した。旧ソ連の観光地にありがちな人たちである。一緒に写真を撮ろうなどと言ってきて、高額なお金をせしめ取ろうとするのである。私たちはお金がないから、というのだが、執拗に離れない。仕方なく写真を撮って別れようとすると、「いくらでもよいのでお金をくれ」という。100円程度を渡すと、これではご飯も食べれないという。日本のお金でごまかして離れた。英語もロシア語も堪能に話せる頭のよさそうなお兄さんだったのが、何とも言えなかった。
キエフには2日間滞在した。もう少し滞在したいと思ったが、タイトなスケジュールなので、もう次の街へ向かわないといけない。
寝台列車でオデッサへ
キエフからは寝台列車の一等車に乗った。ウクライナの物価は安かったから、貧乏な学生でも一等の2人個室に乗ることができた。オデッサまでは約九時間。一等車なので軽食も出て、貧乏な旅行なのに豪勢な気分になったのが可笑しかった。
黒海の真珠 オデッサ
オデッサは黒海に面した港町で、キエフと比べると何となく明るかった。
とりたてて観光名所はないが、市場を眺めたり、建物を見てから、黒海を眺めた。黒海は黒くはなかったが、この海の向こうはトルコだとは信じがたかった。
ここではtwitterで知り合ったウクライナの鉄オタと会った。彼は英語もロシア語も堪能だった。一緒にご飯を食べてから、オデッサのパンフレットに載っている、城に行きたいというと、彼は場所を教えてくれた。電車に乗れば行けそうな距離だったので、エレクトリーチカに乗り込む。
板張りの座席に揺られること一時間。海を眺めながらの旅である。
途中、開けた窓をビール瓶で止めている青年グループと目が合い、友人が「RussianStyle!(good!)」と言って笑った。
その瞬間、そういえばここはウクライナだった、と気が付き肝が冷える。鉄オタに、ロシアとの関係を尋ねると、急に小声の英語に切り替わった。ロシアとの話題はセンシティブなようだった。
たどり着いたのはビルホロド=ドニストロフスキー駅。
目的はアッケルマーン要塞。ウクライナでも最大の要塞で、オスマントルコ時代の要塞のようだった。
大きな要塞には、城壁や塔が残っているだけで、城内には、馬が飼われていた。無常を感じながら、この異世界のような要塞に来られたことをうれしく思った。海の向こうのトルコへ行ってみたくなった。
帰りはバスでオデッサに帰り、鉄オタの彼と別れてから、夕食にボルシチを食べた。
ウクライナは思いのほかに気に入って、カームヤネツィ=ポジーリシクィイのお城やリヴィウへ行きたいと思った。残念ながら予定を変えるには時間が足らず、いつか必ず再訪しようと思うしかなかった。わずか数日のウクライナ滞在だったが、良い印象が残った。
後ろ髪にひかれるように、翌日、私たちはモルドバ行きのマルシュルートカに乗り込んだ。
ウクライナ侵攻
そんなウクライナの思い出もあって、ロシアによるウクライナ侵攻が起こったときはショックだった。私はウクライナへもう一度行きたいと思っていて、ロシア語留学や2018年夏に東欧旅行した時にも立寄ろうかと悩んでいた。残念ながら再訪することは叶わず心残りだった。今に至るまで、戦争は続いていて、戦争前にロシアが好きだった私は、ウクライナが勝利しクリミアまで取り戻すことを祈っている。