カヌレを焼くのが楽しい。
日ごろから料理はするが、レシピにこだわることは少ない。同じ料理を作っても、毎回味が変わる。家庭料理なんてそんなものだろう。それなりにおいしく食べられればいいのだ。
ただし、お菓子は別である。とりわけ焼き菓子は、分量を守らなければ料理としての体裁を保てなくなることも珍しくない。
以前、スポンジケーキを焼く際に、砂糖を甘味料(ラカント)に変えてみた。するとまったく膨らまず、どら焼きみたいにぺっちゃんこになってしまった。砂糖には泡を安定させる役割があり、足りないと泡が潰れてしまうのだ。料理は化学なんだなぁと痛感した体験である。
ケーキ以外に、クッキー、フィナンシェ、マドレーヌ、プリンなど、焼き菓子をしばしば作るが、なかでも好きでよくチャレンジするのが表題の「カヌレ」だ。
正式名称を「カヌレ・ボルドレーズ」と言う。直訳すると、ボルドー地方風のカヌレ。ボルドー地方以外のカヌレを知らないが、単にカヌレと呼んだらふつうはカヌレ・ボルドレーズのことだ。
近年、ミニサイズのカヌレが流行したそうだが、筆者は市販のカヌレは食べたことがないのでそちらの事情はよく知らない。
私がカヌレを知ったのは、フレンチレストランでの修行中。13年前のことだ。そのレストランでは、食後のプチフール(小菓子)としてカヌレを提供していた。
黒光りする独特の見た目をしたカヌレは、フィナンシェやマドレーヌといったその他のプチフールの中にあって明らかに異彩を放っていた。食べてみると、カリッとした表面とむっちりとした中身の食感のコントラストが楽しく、ダークラムがほのかに香る大人な味わい。すっかり気に入って、たびたび仕事中につまんだ。
本来であれば、あの日よく食べたカヌレのレシピをここで披露したい。しかし許可を得ていないのでそれは控える。すでに籍を置いてない店だからこそ、シェフ直伝のレシピを勝手に明かす権利はないだろう。
代わりと言っては何だが、ウェブ上で公開されているものの中でも、個人的にお気に入りのレシピを紹介したい。
バニラビーンズや焦がしバターを使った、風味豊かなカヌレだ。具体的な手順はリンク先に写真付きで紹介されているので、そちらをご覧いただきたい。
カヌレを作る時のポイントは、「めんどくさそうな手順まで含めてぜんぶレシピ通りにする」ことである。カヌレに限った話ではないが、先に例として挙げた「スポンジケーキにおける砂糖」のように、お菓子作りではあらゆる材料、手順に意味があるのだ。どれが致命的な手順か分からないうちは、手を抜いたりアレンジを加えたりせずに、可能な限りレシピ通りにすること。どんなに意識しても、それでも失敗するのがお菓子作りだ。
カヌレに限って言えば、ポイントは主に以下だ。
牛乳はしっかり沸騰させること
粉はしっかり振るうこと
生地は混ぜすぎないこと
生地は一晩休ませること
自宅のオーブンの癖を知ること
なんせハードルが高いのが最後のポイント、「自宅のオーブンの癖」である。
庫内のどの位置に置けばどれぐらい熱が入るのか、熱が入りすぎるならどこかで型を並び替えるべきか、並び替えのためにドアを開くことで何℃まで温度が下がるのか、下がった温度を戻すのにどれだけ時間がかかるか、その間に生地は何度まで下がり、追加でどれくらい焼成が必要になるのか……。
こればっかりは、同じオーブンで何度も焼いてみるほかない。満足いく焼き上がりになるまで、ひたすら失敗を繰り返す。失敗を無駄にしないために、可能な限りレシピを守って条件を揃える。そうやってオーブンの癖を知っていくのだ。
そんな試行錯誤の末に焼きあがった我が家のカヌレがこちら。
引きの画で分かりづらいが、ようやくそれっぽい焼き色になった。レストラン時代とは勝手が何もかも違い、この仕上がりにたどり着くまでにずいぶん失敗を重ねている。
こうやって説明すると、お菓子作りなんてめんどうだと思われるかもしれない。しかし、その試行錯誤が楽しいからカヌレを焼くのだ。実際、焼いたカヌレを食べるのはほとんど妻で、私自身は焼いて満足している節がある。カヌレは焼くのが楽しいのだ。
ところが息子が生まれてから、カヌレを焼く機会がめっきり減った。次に焼くカヌレは、また振り出しに戻っているかもしれない。
まあ、それはそれで、楽しみが増えるというものだ。
執筆:市川円
編集:真央
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