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あなたにとってのトイレ掃除を、誰かは喜んで引き受けるかもしれない――という想像力

例えば、人前に立つこと。嫌がる人もいれば、喜ぶ人もいる。好き嫌いは人によって違う。価値観が違うのは当たり前のことだ。

その日もそうだった。

「トイレ掃除を割り当てられた感覚だ」、とその人は言っていた。

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休日、友人と立ち寄ったカフェで、少しだけ仕事の話になった。彼女は今、あまりやりたくない仕事をやっているのだという。しかし話を聞いてみると、私にとっては羨ましいくらいの仕事で、「もっと楽しんでやればいいのに」なんて無責任に言ってしまった。

「でも嫌なものは嫌だよ」
「トイレ掃除を喜んでやる人はいないでしょ。私にとっては、トイレ掃除を割り当てられた感覚なの」

その例えで、とても腑に落ちた。トイレ掃除が嫌なもの代表みたいになってしまうのはいろいろ語弊があると思うけれど、まあそこは、嫌いなものを無理やり食べさせられる、とか、行きたくもないところに行かされる、とか、なんでもいい。

ようするに、誰かにとっては楽しいことであっても、それが耐え難いほど嫌な人もいるのだ。そんな当たり前の話。当たり前の話だけれど、意外と気づくのは難しい。

いや、気づけなくて当たり前なのかもしれない。私たちは、自分以外の世界を真に理解することはできないのだから。

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「水槽の脳」、という思考実験がある。(めんどくさい話をするので、興味の無い人は次の点線部まで飛ばしてほしい。飛ばしても話は繋がるのでたぶん大丈夫)

水槽の脳(すいそうののう、brain in a vat)とは、「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか」、という仮説。(引用:Wikipedia)

有名なところでは、「胡蝶の夢」なんかが分かりやすいだろう。夢と現、どちらが本当の世界なのか、というやつだ。だが今回この話を挙げた理由は、その主旨からはややずれる。

結論から言うと、私たちは私たちの世界しか認識することができず、本当の意味で私たちを客観視することは不可能、ということだ。

仮に、我々の意識が水槽の中の脳のものだった、と確信したとする。今、この現実において、「私の意識は水槽の脳だ」と確信することは、「この現実における水槽に浮かんだ脳」を想像することに他ならない。その手前にあるべき、「もうひとつ上の次元から見た水槽に浮かんだ脳」を想像することはできないのだ。

それはいわば「神の視点」であり、造物主に生み出されたものが、同じ視点でものを見ているに等しい。生み出されたキャラクターが、作家と同じ視点でものを見ることはないだろう。そういう物語は数あれど、それはやはり「作家の視点」だから考えうるのだ。

さて、それを想像することは不可能だ、という前提に立つと、むしろ「私の意識は水槽の脳だ」という解釈がそもそも間違っていることになる。だって想像することができないのだから。それは「想像した気になっている」だけだ。

でも、だからこそ。並列にならんだ「隣の脳を想像すること」はできるのだ。私たちは少なくとも、同じ次元にいる。

ちなみに、他人に意識なんてない、それらもすべて脳が見せる幻だ、なんて思考実験もあるけれど、それはまた別のお話として。

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さて、結局何が言いたいかというと、私たちはどうしようもなく自分の世界で生きていて、見ている世界はみんな違うけれど、しかし置かれている状況はみんな同じ、ということだ。

同じだけど、自分の世界のつもりで他人の世界を考えている限り、人のことはきっと理解できない。たまたまよく似た世界があって理解した気になったとしても、それは同じ世界ではないから、かえって誤解を招く恐れがある。

だから、他人の世界を想像しよう。同じ次元にいて、あらゆる感覚を共有しているのだから、そう難しいことじゃない。

価値観が違うと苦労するよね、なんて思うことがナンセンスだ。同じ価値観なんてそもそもない。むしろ価値観以外のあらゆるものは同じなのだから、それくらい手を抜かず想像しよう。

自分がされて嫌なことは人にしちゃいけません、なんて子供のころに習ったけれど。

もっと大事なのは、自分が楽しいと思うことを嫌だと思う人がいる、ということの方ではないだろうか。

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