SNSの飽和とある種の終焉。

人間関係において見たくないものは見ない、聞きたくないことは聞かない、関わりたくないことは関わらない、私もそれは自身の心を守る上ではいい事だと思ってきた。でも、最近それは過剰になってきている気がするし、その状態にいるのは時によりけり違うなと感じている。
自分の中に無いものを(つまり拒絶したい/嫌悪する物事全般)外部から得る機会を自ら断ち切る選択をし続けた場合、それは変な話、近親相姦の様な、今ある血を更に濃くし続けるような、そんな歪んだ来世を生むのではないか。命が紡がれるに当たって、それこそ多角性など失われていくのではないのか。
楽である事というのはもちろんいいことでもあるが、楽である事が当たり前である状況になってしまうのは危険な気もする。

今の所、どうしても避けられない生活の中の無いものに振り回されてどうにか保っているが、もしもそうではなくなってしまう時が来たら。余計にいさかいも殺し合いも終わらない、そんな殺伐とした世界になっていく気がする。

自然界における人間の生存バランスはどういう状態なんだろう。

何故こんなことを考えてるのか自分でも謎だが、そういう思考がやたら最近おきる。

それともたとえば全てのモノにそれぞれの世界があって曖昧な重なり合いがまるで編み物のように複雑に絡まりあう複数がひとつである世界だからこそ見ない聞かない関わらないでも成立するのだろうか。それはもしかして、細胞分裂のような働きなのだろうか。またそれらが新しい基幹/機関となるのか。

一昨年辺りから感じているSNSの終わってる感もそういった“血の濃さ”から来ている気がする。
目新しいものが流動しているようで実は滞留しているものがぐるぐるまわっているだけの様な状態だからではないか。刺激物の飽和状態にあるのではないだろうか。なんとなく決められた問題集の“空欄を埋めよ”的な穴埋め問題をさせられている気がするからではないか。もう何度も解いたその問題は刷り込まれた無意識下に落ち、私達は狭い狭い空間にいる。

それがひとつの濃縮された世界だとするならば、これ以上は危険だと警鐘を鳴らしているのかもしれない。基幹/機関どちらになるにせよ、やはりそれは細胞が分裂していくかのように、新しい遺伝子を求めているのかも知れない。編み目をひとつ増やしたいのかも知れない。一体何が完成なのかは未知だけれど。

ちょくちょく他の記事にも書いているが、取捨選択しているようで操作されている気がしてならない。広いようで狭いこの空間/コミュニティで同じ喜怒哀楽を刷り込まれている気がしてならない。見えない同調圧力のような感覚をもおぼえる。窮屈なのだ。

なんにせよひとつの時代の変わり目ではありそうな、そんな気がしている。

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