軽妙洒脱な哲学者:木田元 (1)
私が木田元の名を初めて知ったのは大学時代、メルロ=ポンティの翻訳者として、次にハイデガーの研究者としてであった。著書としては、『現象学』『ハイデガーの思想』『ハイデガー「存在と時間」の構築』『反哲学史』など専門的な著書ばかりを読んできた。
昨年、古書店で偶然手にした『哲学は人生の役に立つのか』が面白く、義母の病院に付き添った待合室で一気に読了してしまった。この本は木田元がなぜ哲学を志したのか、哲学に打ち込んできた半生を書いた自伝的な一冊で、それから彼のエッセイ的な本を買い求めては読み耽った。
『哲学散歩』『ハイデガー拾い読み』『哲学の余白』など、哲学者の文章とは思えないほどわかりやすい。さりげなく自分のことや古今東西の哲学者のエピソードを持ち出して、その時代のことや人生を語りながら人間の生き方やあり方について示唆的な散文を書いている。
あらためて木田の書いた哲学に関する本が読みたくなり、『わたしの哲学入門』(講談社学術文庫)を買い求めた。読み始めて、なるほどと思ったのは、彼のエッセイ本の延長にあり、哲学もまた人生を解き開くための知識を得る手段であるということだ。
本書を買い求めたのは7年ほど前だが、途中で投げ出していた。今回、あらためて読んでみると、実におもしろくわかりやすかった。それは木田元という哲学者に惹かれて、彼の思索を「追思考」したからだろう。
「追体験」を別の表現で「追思考」(これは木田の教え子たちが書いた追悼文にも多々見られる)とも言っている。確かに「しっかりと、じっくりと読み込んでいく」「著者の背景まで理解して思考や感情を読み深めていく」といった読書を、私もしなくなった気がする。インターネットの普及がさらに加速させた要因ではあるが、それ以上に情報化社会・デジタル社会が当り前になってしまったからだろう。その結果、情報が軽薄になってしまっている。
私は本の内容に興味があっても、著者にはあまり関心を持たない人間である。反対に、著書の内容よりも著者の学歴や肩書きに固執して、その人間性や人格を臆測して批判する人間もいる。「こんなことを書く人間は~」とか「〇〇大学を出た専門家のくせに~」などと著書の内容を考察して反論を書くよりも、書いた人間を独断と偏見で攻撃する。そこには独善性と独断があるとしか思えないのだが…。
木田元については彼の人生と人間像に興味を持った。そこで2冊の本を買い求めて読んでみた。『哲学者・木田元 ー 編集者が見た稀有な軌跡』(大塚信一)と『木田元 軽妙洒脱な反哲学』である。前著は元岩波書店社長であり、編集者時代に木田元を見出して名著『現象学』を誕生させた人物である大塚氏が、編集者として半世紀以上の親しい交わりの中で見てきた木田元の思索と仕事(執筆)の途を記述したものである。木田の思索の変遷と著作の解題が詳細にまとめられていて興味深かった。特に思索の背景が語られていて、木田の著作の位置づけが明確になった気がする。
少し前、『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』(田邊園子)について言及したが、やはり編集者というものは担当する著者以上に勉強家でなければならない、しかも著者の専門分野について相当に深く理解していなければならないことを、あらためて知った。
今の時代、ネット社会だからこそ尚更に「編集者」が必要であると痛感する。なぜなら「校正」が不要なネットへの投稿やブログの記事が溢れかえっている現状を危惧するからである。ネット上で問題化している「誹謗中傷・罵詈雑言」の要因の一端がそこにある。
後著は木田元を偲んで編集された追悼集である。木田の友人や教え子(弟子)が思い出ととも彼のさまざまな面を人間像として描いている。また、<論考><著作解題>では彼の思索や思想について考察されている。
<知の巨人>と評された人物で思い浮かぶのは立花隆だが、彼が好奇心の趣くままに万巻の書物を収集して情報を得て多くの本を著述したのに対して、木田も膨大な書物を読破した人物であるが、立花が広くであれば、木田は深くのように思う。(もちろん、両者とも広く深くではあるが)
本書で教え子や弟子が共通に述べているのは、その読書の量と質である。文学から芸術まで広範な読書量の一方で、専門の哲学では原書を一字一句を丹念に読み解いていく。さらに歴史や社会思想の背景まで関連文献を読み込んでいく。
本書には、木田の原書講読や演習、読書会での厳密さについての逸話が多く書かれているが、本人の自伝的エッセイにも同様のことが書いてある。日々の研究者としての厳密な仕事と教師としての厳格な指導が何十年にもわたって積み重ねられてきたのだろう。
私も似たような体験をしたからわかるが、まさに修行であり苦行であった。その中で「上手く訳せた」「わかった」といったことがほんの少しあるだけで報われた思いになった。
世の中、独学がブームのようであるが、独りで本の中だけで学んだり思索したりする「弊害」も意識しておく必要を感じる。木田もそうであるが、なぜ「読書会」や「輪読会」「勉強会」をもつのか、独学による偏りを修正するためである。また、なぜ人との交流や会話を重要視するのか、これも偏見や独断に気づくためである。
事実、本の中(通して)で著者と語らっているから人との交わりはいらないという人間がブログ上にバラまいている「誹謗中傷・罵詈雑言」は、本人は気づかないだろうが、迷惑でしかない。自らの偏見や予断、臆測からの独断など害悪でしかない。
木田もそうだが、自伝的エッセイや哲学的散文、専門分野の論文や著書においても、他説への批判はあっても著者への非難はない。まして悪言雑言など皆無である。「校正」を経た著作だからであろうが、逆に「校正」のない公開を前提とした記事を書くのであれば、尚更に留意すべき事だと痛感する。
生松敬三もそうであったが、木田元も同じく、惜しい人を亡くした。