岡山の部落関係史:岡山藩6
江戸時代の中期から後期にかけて幕府や各藩から「えた」・「ひにん」身分を対象とした差別法令が頻繁に繰り返し出されるようになる。貨幣経済の進展により商工業が発達し、富裕な町人たちによる絢爛豪華な文化が生まれた一方で、社会全体のゆるんだ雰囲気が拡がり、支出の増大と凶作による財政難が幕府や諸藩を苦しめるようになる。その対策として、財政と風紀の強力な引き締めが行われた。特に、身分制度の立て直しによって支配階級である武士の権威を高めるため、百姓や町人に身分に応じた生活を強制し、さらに被差別民との差別化を図った。
ここでは、被差別民への「身分統制令」(差別法令)による差別強化、それに抵抗する被差別民の姿をまとめておく。
◯1787(天明 7)
播州林田藩で一揆が起こる。(『揖竜の部落史』に岡山藩が弾圧に応援を繰り出し、“忍び”に探索をさせ“皮多”が参加している事実を報告させたとある)
◯1778(安永 7)
穢多・非人へ、風俗が悪く百姓町人へ法外の働きをすることなどを理由に取締令(法例集)
柳原での処刑のとき見物人が多いので見物禁止(法例集)
1778年,幕府は『穢多・非人風俗の儀に付き御触れ書き』として,全国の大名・代官所に通達し,被差別身分(穢多・非人)の風俗に対して厳しく取り締まるように命じ,身分をわきまえさせるように厳命する。その内容は,彼らの風俗が悪く,百姓や町人に対して不法な行い(「法外之働いたし」)をしたり,百姓や町人と同様の容姿(「百姓体紛かし」「百姓町人体に紛し」)で「旅籠」や「煮売」「酒屋」に「立入」るなど好き勝手にふるまうことを思い上がり(「増長」)であるとして非難している。
しかも,このお触れでは「百姓・町人等は外聞にかかわり,用捨いたし置き候ゆえ,法外増長致し」と被差別身分に対し差別的な対応をしない百姓や町人を非難している。このことから,差別する側に対して,差別を義務として強制していることがわかる。
この幕府の姿勢は諸藩の政策の中にすぐに反映されていった。同じ年,美作の津山藩は同じ様に,百姓・町人に区別(差別)するように命じている。また1780年,土佐藩でも「穢多ども」が百姓にまぎれこむのを禁じ(百姓の屋敷に上がり同飲・同食すれば,逮捕し処罰すると命じている。また百姓も犯罪として処罰すると厳命している),夕刻すぎに町方を歩くことなどを禁止している。
<差別法令が意味するもの>
差別法令は,「禁止」しなければならない実態があったから出された。
被差別民も,農業やさまざまな雑業をもとに暮らしを高めていった。そして平人身分と結婚したり,農家・商家へ奉公をしたり,町に住み着いたり,伊勢参りに行くなどのように身分差別に反する多くの行為(事実)が当たり前のようになっていった。
身分差別の法令が強化されることは,逆に「(身)分相応に生きる」という身分制度の基盤である身分相応に生きるという身分秩序が崩れ始めているからである。それは,身分秩序を崩すような行動が日常的に表面化するまでになっていた実態があったと考えられる。
多くの差別法令に「こういうことは以前からたびたび注意していることであるが,身分をわきまえない者がいるので」という前書きが見られることからも,被差別民が暮らしを高め,被差別の立場から抜け出て,百姓や町人と同じ立場(同様に扱われる立場:同じ人間として見なされる立場)になろうとする動き(脱賤化,平人化)があったと考えられる。
幕府や藩にとって,もはやそのまま放っておけないような実態だった。為政者は,差別を乗り越えようとする思いや言動,抵抗の意思を被差別民の中に感じ取り,処罰や屈辱的な規制を厳命することで身分秩序を守ろうとしたのである。
幕府や藩は,民衆がケガレ意識をもって排除していたのを,差別法令に生かすことで,身分間のちがいを強制して身分秩序を維持しようとしたのである。また,このような意図で出された差別法令が,結果的には,民衆の排他的な差別意識を刺激することになり,支配への不満をそらす分裂支配として機能したと考える。
◯1789(寛政 1)
窪屋郡酒津村新八が中国筋の“夙の者”につき書付を幕府に提出(夙は穢多の手下という)(徳川禁令考)
◯1794(寛政 6)
上道郡沖新田七番穢多が大神楽一行を取り巻き、穢多村へも来てくれと要望。前例なしとの返答に道具を壊す
「大神楽」は伊勢の太太神楽から出た獅子舞・品玉・皿回しなどの雑芸である。
詳しくは拙ブログ『存在を問い続けて』「伊勢大神楽差別事件」を参照
◯1796(寛政 8)
穢多の風俗につき、集合・飲酒禁止の取締令(市政提要)
◯1797(寛政 9)
岡山藩の穢多、寺院(常福寺)真言宗を承認させる(再興常福寺記)
岡山藩は、国守村の人々の申し出により常福寺へ英田郡上山村明王院の弟子周温を呼び法要等を務めさすことを認めている。岡山藩の「かわた」(穢多)は、長い抵抗を続けた結果、幕府の宗教政策(改宗命令)を後退させ、真言宗を守り通している。
◯1812(文化 9)
上道郡笹岡村穢多村中より立川村百姓が乱暴したと公正な裁判を嘆願(岡崎家文書)
上記の史料において特に重要と思われる部分を書き出してみる。
この史料にある「穢多共事七人迄殺候共敵壱人無之由」であるが、有名な同和教育(部落問題学習)の教材である「七分の一の命」と同じである。
1859年(安政6年)2月、江戸山谷の真崎稲荷(現・東京都荒川区南千住の石浜神社)で山谷の若者と穢多の若者が衝突し、穢多が一人殺された。そこで穢多頭の弾左衛門は下手人の処刑を北町奉行(当時この地位にあったのは石谷穆清)に願い出た。すると奉行は「およそ穢多の身分は平民に比して七分の一に相当するから、今六人の穢多を殺して後、相当の処刑をなすべし」と宣告した。
しかし本田豊氏はこのような史実があったこと自体を疑い、幕末の「七分の一のいのち」事件が文献や史料に出ておらず、事実そのものがなかったとしかいいようがない、と述べて論争になった。この判決は原本が幕府史料の中に見つからないため、史実かどうか疑われていたが、近年、同様の差別的判決がほかにも多数見つかり、再評価されている。
両方を比べれば、岡山藩の史料が1812(文化9)年であり、1859年より以前のものであることから、しかも「徒党」(百姓側)が「穢多共事七人迄殺候共敵壱人無之由」と言っていることからも、人々の中に「穢多(の命)は平人の七分の一」であるという認識が当然のように広まっていたと解釈できる。穢多はそのような存在と人々に認識されていたのであり、武士も同じく認識していたがゆえに奉行もそのような宣告したのである。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。