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『部落史入門』(塩見鮮一郎)を読む

塩見鮮一郎『部落史入門』(河出文庫)を読んでいて思い出した言葉がある。

【…歴史家の主な仕事は,“汚点”などの事実と人間的に向き合ったうえで,事実から認識に必要な“知的距離”を保ち,冷静に因果関係をあらゆる史料を駆使して多面的に分析すること】渓内謙『現代史を学ぶ』(岩波新書)
【…歴史とは現在と過去との対話である("An unending dialogue between the present and the past.")】E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)

カーのこの言葉は有名であるため,さまざまに解釈されてきたが,彼には【…歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり,現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話】という言葉もあることから,歴史家の研究姿勢を述べたものと解釈できる。換言すれば,歴史家によって歴史はどうとでも解釈される危険性を持つとも言える。だからこそ,歴史家には真摯に歴史の事実に向き合い続け,厳しく問い続ける責務がある。

本書は,明治以後の著名な歴史学者や民俗学者(柳瀬勁介・高橋貞樹・喜田貞吉・柳田国男・佐野学・菊池山哉・三次伊平次)が部落の歴史について書いている本を俎上に挙げて,彼らの部落史観がどのような歴史観や思想(たとえば,マルクス主義歴史観=唯物史観,皇国史観)の影響下にあり,そのためにどのような歴史解釈に到り,その結果どれほどの誤謬を広めることになったか…等々を詳細に考察している。テーマとしての切り口は斬新であり,明快な分析でわかりやすい。しかし一方で歴史解釈の恐ろしさを痛感した。

私自身が教師として,まだ部落史の何たるかも知らなかった昔,教科書やわずかの参考文献を信じて生徒に教えていた頃をあらためて振り返り,いかに「まちがった部落史」の数々を教えていたのか,恥ずかしく思う。
当時は,「近世政治起源説」に基づいた部落史観が定説であり,教科書には「士農工商・穢多・非人」の身分制度を江戸幕府が分断政策を目的につくったと説明していた。そして,例のピラミッド図が指導書にも記載されていた。
あの頃,もしわずかな疑問をもたなければ,もし同僚が当時は異端とさえ言われた上杉聰氏の部落史(講演時の配付資料)を紹介してくれなければ…そう考えるとぞっとする。
職員研修の席上,初めて従来の近世政治起源説を批判して,上杉氏などの新しい学説を紹介したとき,部落出身の先輩教師から「気分が悪い」と却下されたことも思い出される。(のちに,彼は江戸幕府の責任であって,自分たちの責任ではない。その時の政治(幕府・支配者)が悪いのだと思い込んでいたと話してくれた)

今回,本書を読みながら,なぜ従来(「部落史の見直し」以前)の部落史がそのように定説化されてきたのか,その歴史的背景がはっきりした思いがする。歴史解釈は「史観」に大きく左右されるのだと,「史観」を形成する思想や理論によって歴史事象(史実)そのものの解釈もまた変わってしまうのだと痛切に感じた。

自説以外はすべて否定する人間がいる。自説以外に部落問題の解消はないと公言して憚らない人間がいる。私はそうは思わない。
本書で紹介された柳瀬勁介も高橋貞樹も,部落史を書こうと思った心情が「部落差別の解消」であった事実は忘れてはいけないと思う。たとえまちがった歴史解釈・部落史像の定義であったとしても,唯物史観や皇国史観に基づく近世政治起源説が批判されても,部落問題の解決に真摯に取り組もうとしたことは決して否定されるべきではないと考える。

…解放令が出ても,維新前となにひとつ変わらないのは,これは「世間」がいまだ「良賤の由来」を知らないからだ。ならば,その由来を知って,世間の「各人」の「感覚」が変わるほかはない。このように柳瀬勁介は考えた。
…部落の歴史がはっきりとしてないから差別が残ったと考えた。はっきりすると,偏見はすみやかに退散するだろう。そこで,柳瀬は,近代最初のまとまった部落史を書いた。この考え方は,高橋貞樹とおなじだし,こんにちまでつづく考えである。
しかし,歴史を知らないことと,差別してしまうということを,単線的に結びつけることはできない。維新後に非人身分がとりあえず解放されたのは,非人の歴史が知られたからではない。

まったく同感である。「良賤の由来」を知ったとして,「世間」の「感覚」が変わるほど,「世間」の差別意識は易しいものではない。そうであれば,戦前の水平社運動,戦後の部落解放運動や同和教育の歳月によって「世間」の「感覚」は変わっていてもおかしくはない。
部落の歴史が解明されれば部落問題は解消するほど単純な問題ではない。まして他者の学説を批判するだけの部落史観,実践なき提言など人の心に響くことはない。

大切なことは,常に新しい文献や論文に自らの思考と感性で向き合い続けること,他者の学説や提言に謙虚に教えを請いながら思考実験を繰り返し続けることである。
硬直化した歴史認識や歴史観では「生きた歴史」は描けない。人々の心を揺り動かすことはできない。

蛇足になるが,塩見氏の次の一文に思わず納得してしまった。

…他をおとしめることで自分が優位にあるかのようによそおう筆法で柳田(国男)はこれをよく使う。

実は,昔から柳田国男の文章が苦手というより嫌いだった。その理由がはっきりした気がする。読んでいて鼻持ちならない不愉快な気持ちになり,先に進みたくなくなる。その理由が彼の筆法にあり,その筆法は彼の傲慢さにあるのかもしれない。似たような文章を書く人間を知っている。類は友を呼ぶのかもしれない。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。